映画「寄生獣」を見て感じたこと
遅ればせながら、ようやく実写映画版「寄生獣」を見に行ったのですが、
いやあ、びっくりしました。まさかここまで違うとは。
あらかじめ前情報として、原作とは設定自体がかなり違うという話は聞いていたのですが、予想以上でしたね。

※今回、映画「寄生獣」および原作漫画のネタバレが含まれますのでご注意ください。
母子家庭の設定とか加奈も宇田さんも出ないとかも知ってはいたのですが、
それ以上にストーリー展開やキャラクターの行動自体がかなり変更されていたのには驚かされました。
Aが警官だったり、かなり早い段階から警察が動いていたり、正直、始めはかなり戸惑いがありましたね。
ただここまで違うと、逆に原作と変に比べないで見れたので、かえって素直に楽しめました面もありました。
むしろアニメのほうが、変に原作と同じ流れで進んでいるだけに、妙にあらさがしをしてしまうというか、細かいところに目がそれ行きすぎてしまう嫌いがありますね。
●アニメ「寄生獣」は引き算の面白さ
前にも書きましたが、私がこの作品を基本的に「映像」には向いていないと考えています。
それは“動き”や“音”がある「映像」という表現方法への疑問もさることながら、
もうひとつ、発表媒体の制約も大きいと思うんですね。
つまり、「時間」の制約です。
アニメの不満を見てみると、「あのセリフをなぜカットした」とか「ライオンは出さないとだめだろ」とか、原作にあるものをなぜ入れないんだという声がけっこうあります。
でも、仕方ないんですね。だって本編正味20分強で2クール24話ですよ。そりゃ原作全10巻すべての要素を入れるなんて物理的に不可能ですよ。
もちろん、4クールで1年かければ原作すべてを映像化できるかもしれませんが、それを決めるのはアニメスタッフじゃないですからね。あくまでテレビ局の枠内でビジネスとして決まることですから、パッケージの分量のことをアニメ制作側に責任を求めるのは酷だと思います。
今の時代、深夜アニメに1年もかけるほど余裕はないでしょうしね。
映像作品というのはどうしても、時間に縛られます。これはそれこそ、「メディアの違いを理解せよ」というやつで、マンガや小説にはないネックなのです。(マンガにも打ち切りとかはありますけどね)
もちろん、何を削って何を残して表現するのかは“センス”の問題ですので、そこを批判するのはありだと思いますが。
で、アニメは2クールという制約の中で、とりあえずできる限り、「原作」のすべてを詰め込もうとしているように見えるんですね。
だから、アニメも面白いだろうという感想もわかるんです。ところどころカットしながらも「原作」の流れをそのままなぞっているので、そこで残っているものも「面白い」のも道理です。
要するに、引き算の面白さなんです。
●実写映画「寄生獣」は“テーマ”を増幅させている
それに対して、実写映画のほうは、もう開き直っているんですね。
山崎監督はインタビューで加奈も宇田さんもカットするのは辛かったというようなことを言っています。原作のエッセンスすべて入れるなら四部作ぐらいじゃないとできないと。
1時間40分という時間の制約の中で本編と完結編のふたつしか作れない。これではアニメよりも描く時間が限られます。じゃあどうするのか。
監督はそこで、もうテーマを絞ってしまったんですね。それ以外はもう仕方ない捨てようと。その分、残ったテーマはなるべく膨らませようと。
つまり、「母親」というテーマ。
極力このテーマを炙り出すために、彼は他を切り捨てるというか、犠牲にしています。
その分、新一と母親の関係は原作以上に濃厚です。ちょっとマザコン的というか、息子のためにミンチを買うシーンも含め、父親がいない分、母親の心情というものをドラマとして描いています。
ただ、橋の下でのAが寄生した母親との対決シーンで、母親の想いが“手”の動作に作用したというのは、ちょっとやりすぎかなとは思いましたが。
あれじゃあ安っぽいお涙頂戴になりかねないですよね。
まあ宇田さんとジョーがいないんだから仕方ないといえばそうですが。
●田宮良子の仕草に注目
また、田宮良子。
加奈や宇田さんがいない分、彼女という存在にはかなりズームアップしています。
妊娠していることが学校側にばれて、アパートに帰るシーン。原作やアニメでは部屋にいるのは母親だけでしたが、映画では父親も訪ねてきます。
そして、彼には最後まで“田宮良子”という存在を見抜けないわけです。
つまり、“母親”との対比を見せたかったんですね。
さらには、映画の最後。
なんと、彼女は映画「寄生獣」のプロローグとでもいうべき「映像」を見ています。
あの、「地球上の誰かがふと思った……」というやつですね。
しかも、彼女はこの映像を暇あれば繰り返し見ているというんです。
ここはちょっとメタぽいというか、ひょっとするとこの映画は“広川”の選挙公報なのかと思わせますねw
そして、その横で“食事”をしている後藤。
彼が本来なら、田宮良子が言うべきセリフをしゃべるわけです。
すなわち、
「わたしが人間の脳を奪ったとき1つの“命令”がきた」
「“この種を食い殺せ”だ!」
です。
で、この「後藤のセリフ」を聞きながら、田宮はすでに大きくなっている自分のお腹をさすっているんですね。このシーンがすごく印象的なんですよ。
果たして彼女はこの言葉をどういう気持ちで聞いたのでしょう。
生むことを「実験」といい、用がなければ食うとまで言った彼女がこんな仕草してしまうことに、なんだかぐっときてしまうんです。
そして、そんな自分が、なんだか滑稽にさえ感じてしまう感覚はちょっと新鮮でしたね。それこそ、「価値観を揺すぶられる」というか。
●“人間”が演じた意味
実写には“演者”がいます。当たり前ですが、普段テレビなどで見ている顔が、役を演じているわけです。
はっきり言ってその時点で、原作とは別物なんですね。少なくとも私は。
アニメはまだ「声」だけの演技なので、“絵”によってはなんとか原作補正も利くのですが、人間そのものが演じるものはどうしても素直に作品世界に入っていけないような感覚があるんですよ。
ただ、そんな私でも、主人公の染谷将太さんはよかったと感じました。
彼と田宮役の深津絵里さんだけでも見る価値はありましたね。
なんというか、“人間”が演じることによって、「生き物として人間とはなんなのか」というテーマがより深まった気がするんですよ。“絵”じゃなくってね。
(余談ですが、アニメもミギー役の平野さんはすごいと思いますね。やっぱり、評価されている人は何かが違います)
あと、“人間”が“パラサイト”を演じるということ自体、皮肉というか、ちょっと面白いと感じましたね。
これは最終的な結論である『「愚かな人間どもよ」とか人間が言うなよ』ということにもつながっていくと思うのですが、「寄生獣」という作品を「人間」が生み出しているというある種の“矛盾”がこの作品のキモだと思うんで、完結編にもその辺はきちんと描いてほしいなと思います。
●結末は決して「人類肯定」ではない
さて、「寄生獣」の結末について考えているうちに、ひとつ気になることを思い出しました。
それは先日、ユリイカ1月臨時増刊として出た、岩明均特集号の中のあるコラムについてです。

物語はかろうじて人類の肯定で幕を閉じる。が、しかし。本当に、これで良かったのだろうか。
(中略)
最後にミギーが語った「心に余裕(ヒマ)がある生物」である人間の素晴らしさ。しかし、この台詞は根本的な部分でなにかが違う気がしてならない。本当に「心」はそんなに大事だろうか。むしろ、ほとんどの人間は「心」のせいで生きづらくなっているのではないか。
(ユリイカ1月臨時増刊号/総特集岩明均 「ああそうか」海猫沢めろん 本文124ページから125ページより引用)
このコラムを読んで引っかかったのは「あれって人類の肯定か?」ということでした。
確かに、「デビルマン」とは最終的に違う領域にたどり着いたとは思います。
でもあれは、単に「他者を思いやれる人間ていいよね、心があるって素晴らしいよね」という結論じゃあないと思うんです。というか、肯定でも否定でもないんですよ。
なぜなら、「寄生獣」を作った人もそれを読む人もみんな「人類」だから。
要するに「人類が人類語るなよ」なんですよ。
哲学的な内容とかよく言われますが、哲学だの宗教だの神様だの心だの、つまりは「ヒマ」だから考えてしまうことなんです。ほかの動物はみんな「命令」に従っているだけですよ。
人間だけが「命令」に従うだけじゃ満足できない“贅沢な”生き物になっているというだけなんです。そこに善悪はないんです。だって「善悪」こそ、余裕(ヒマ)が持て余す人間が生み出したものだから。
「心」は本当に大事なのかとは、どこで考えているのでしょうか。あなたの「心」でしょう。
「心」が「愚かな“心”よ」とか語るのってちゃんちゃらおかしいよね、てことなんです。
●当たり前のこと
そう考えると「広川」というキャラクターはすごいですね。あれこそ、「寄生獣」を象徴している存在というか、人間が「人類こそ“寄生獣”だ!」と叫ぶ矛盾というか、ナンセンスさを体現していたわけですから。
連載当時、私も「中二病」的なやさぐれ方をしていたときもあったので、海猫沢めろん氏の言わんとすることもわからないでもないのですが、やっぱり「広川」が人間だったということを知った時の衝撃は忘れられないんですね。あれで、本当にぶっ叩かれましたから。
ああ、人間不信とか言っている俺も人間だよな、という極めて当たり前のことを改めて認識したときの脱力感というか、馬鹿馬鹿しさといったらなかったです。
確かに、「寄生獣」という作品はある種の“俯瞰”的視点というか、どこか人間を突き放して観察している部分があるので、そういう「毒」に侵されてしまう面もあります。
でも、いくら人間には意味がない、心にも意味がない、と断罪しても、それをするのも「人間」であり、「心」がそうさせているんです。そんな当たり前のことを最後に突き付けただけなんですね。
●完結編に望むこと
今回の映画では「母親」というテーマ以外にも、人間側のほうが圧倒的な優位なのだということが描かれています。
最初のほうで、コンビニの防犯カメラにパラサイトが店員を捕食する場面が映っているシーンがあったりもして、かなり早い段階で国家権力が状況を把握しているだろうことが仄めかされています。
また、かなり早い段階で広川が登場したり、パラサイト側が人間を恐れてネットワークを構築している面が強調されてもいます。
山崎監督によりますと、完結編ではパラサイトよりも人間のほうが危険じゃないか?といったテーマが浮き上がってくるそうですが、なるほど確かに、そういう布石を打ってはいますね。
ただ、「人間は地球にとって危険だ」で終わるような単なる“環境保護映画”になることはないでしょう。
なぜなら、この映画でも「広川」という人物がかなりキーマンになりそうな感じだったからです。
もちろん、彼を単に「人間のくせに人間を蔑む愚か者」と断罪するのも違うでしょう。
彼も新一と同じように、「パラサイト」と「人間」の間にいた存在だったのですから。
というか、だれもが一度は、「広川」のようなことを考えてしまうのですから。
そう、本当に人間って「余裕(ヒマ)」な生き物ですよね。
映画「寄生獣」完結編。
ここまで原作と違うものを今更、どうこうとは思いません。
ただ、結論だけは、人類肯定でも人類否定でもないものにしてほしいなと思います。
いやあ、びっくりしました。まさかここまで違うとは。
あらかじめ前情報として、原作とは設定自体がかなり違うという話は聞いていたのですが、予想以上でしたね。

※今回、映画「寄生獣」および原作漫画のネタバレが含まれますのでご注意ください。
母子家庭の設定とか加奈も宇田さんも出ないとかも知ってはいたのですが、
それ以上にストーリー展開やキャラクターの行動自体がかなり変更されていたのには驚かされました。
Aが警官だったり、かなり早い段階から警察が動いていたり、正直、始めはかなり戸惑いがありましたね。
ただここまで違うと、逆に原作と変に比べないで見れたので、かえって素直に楽しめました面もありました。
むしろアニメのほうが、変に原作と同じ流れで進んでいるだけに、妙にあらさがしをしてしまうというか、細かいところに目がそれ行きすぎてしまう嫌いがありますね。
●アニメ「寄生獣」は引き算の面白さ
前にも書きましたが、私がこの作品を基本的に「映像」には向いていないと考えています。
それは“動き”や“音”がある「映像」という表現方法への疑問もさることながら、
もうひとつ、発表媒体の制約も大きいと思うんですね。
つまり、「時間」の制約です。
アニメの不満を見てみると、「あのセリフをなぜカットした」とか「ライオンは出さないとだめだろ」とか、原作にあるものをなぜ入れないんだという声がけっこうあります。
でも、仕方ないんですね。だって本編正味20分強で2クール24話ですよ。そりゃ原作全10巻すべての要素を入れるなんて物理的に不可能ですよ。
もちろん、4クールで1年かければ原作すべてを映像化できるかもしれませんが、それを決めるのはアニメスタッフじゃないですからね。あくまでテレビ局の枠内でビジネスとして決まることですから、パッケージの分量のことをアニメ制作側に責任を求めるのは酷だと思います。
今の時代、深夜アニメに1年もかけるほど余裕はないでしょうしね。
映像作品というのはどうしても、時間に縛られます。これはそれこそ、「メディアの違いを理解せよ」というやつで、マンガや小説にはないネックなのです。(マンガにも打ち切りとかはありますけどね)
もちろん、何を削って何を残して表現するのかは“センス”の問題ですので、そこを批判するのはありだと思いますが。
で、アニメは2クールという制約の中で、とりあえずできる限り、「原作」のすべてを詰め込もうとしているように見えるんですね。
だから、アニメも面白いだろうという感想もわかるんです。ところどころカットしながらも「原作」の流れをそのままなぞっているので、そこで残っているものも「面白い」のも道理です。
要するに、引き算の面白さなんです。
●実写映画「寄生獣」は“テーマ”を増幅させている
それに対して、実写映画のほうは、もう開き直っているんですね。
山崎監督はインタビューで加奈も宇田さんもカットするのは辛かったというようなことを言っています。原作のエッセンスすべて入れるなら四部作ぐらいじゃないとできないと。
1時間40分という時間の制約の中で本編と完結編のふたつしか作れない。これではアニメよりも描く時間が限られます。じゃあどうするのか。
監督はそこで、もうテーマを絞ってしまったんですね。それ以外はもう仕方ない捨てようと。その分、残ったテーマはなるべく膨らませようと。
つまり、「母親」というテーマ。
極力このテーマを炙り出すために、彼は他を切り捨てるというか、犠牲にしています。
その分、新一と母親の関係は原作以上に濃厚です。ちょっとマザコン的というか、息子のためにミンチを買うシーンも含め、父親がいない分、母親の心情というものをドラマとして描いています。
ただ、橋の下でのAが寄生した母親との対決シーンで、母親の想いが“手”の動作に作用したというのは、ちょっとやりすぎかなとは思いましたが。
あれじゃあ安っぽいお涙頂戴になりかねないですよね。
まあ宇田さんとジョーがいないんだから仕方ないといえばそうですが。
●田宮良子の仕草に注目
また、田宮良子。
加奈や宇田さんがいない分、彼女という存在にはかなりズームアップしています。
妊娠していることが学校側にばれて、アパートに帰るシーン。原作やアニメでは部屋にいるのは母親だけでしたが、映画では父親も訪ねてきます。
そして、彼には最後まで“田宮良子”という存在を見抜けないわけです。
つまり、“母親”との対比を見せたかったんですね。
さらには、映画の最後。
なんと、彼女は映画「寄生獣」のプロローグとでもいうべき「映像」を見ています。
あの、「地球上の誰かがふと思った……」というやつですね。
しかも、彼女はこの映像を暇あれば繰り返し見ているというんです。
ここはちょっとメタぽいというか、ひょっとするとこの映画は“広川”の選挙公報なのかと思わせますねw
そして、その横で“食事”をしている後藤。
彼が本来なら、田宮良子が言うべきセリフをしゃべるわけです。
すなわち、
「わたしが人間の脳を奪ったとき1つの“命令”がきた」
「“この種を食い殺せ”だ!」
です。
で、この「後藤のセリフ」を聞きながら、田宮はすでに大きくなっている自分のお腹をさすっているんですね。このシーンがすごく印象的なんですよ。
果たして彼女はこの言葉をどういう気持ちで聞いたのでしょう。
生むことを「実験」といい、用がなければ食うとまで言った彼女がこんな仕草してしまうことに、なんだかぐっときてしまうんです。
そして、そんな自分が、なんだか滑稽にさえ感じてしまう感覚はちょっと新鮮でしたね。それこそ、「価値観を揺すぶられる」というか。
●“人間”が演じた意味
実写には“演者”がいます。当たり前ですが、普段テレビなどで見ている顔が、役を演じているわけです。
はっきり言ってその時点で、原作とは別物なんですね。少なくとも私は。
アニメはまだ「声」だけの演技なので、“絵”によってはなんとか原作補正も利くのですが、人間そのものが演じるものはどうしても素直に作品世界に入っていけないような感覚があるんですよ。
ただ、そんな私でも、主人公の染谷将太さんはよかったと感じました。
彼と田宮役の深津絵里さんだけでも見る価値はありましたね。
なんというか、“人間”が演じることによって、「生き物として人間とはなんなのか」というテーマがより深まった気がするんですよ。“絵”じゃなくってね。
(余談ですが、アニメもミギー役の平野さんはすごいと思いますね。やっぱり、評価されている人は何かが違います)
あと、“人間”が“パラサイト”を演じるということ自体、皮肉というか、ちょっと面白いと感じましたね。
これは最終的な結論である『「愚かな人間どもよ」とか人間が言うなよ』ということにもつながっていくと思うのですが、「寄生獣」という作品を「人間」が生み出しているというある種の“矛盾”がこの作品のキモだと思うんで、完結編にもその辺はきちんと描いてほしいなと思います。
●結末は決して「人類肯定」ではない
さて、「寄生獣」の結末について考えているうちに、ひとつ気になることを思い出しました。
それは先日、ユリイカ1月臨時増刊として出た、岩明均特集号の中のあるコラムについてです。

物語はかろうじて人類の肯定で幕を閉じる。が、しかし。本当に、これで良かったのだろうか。
(中略)
最後にミギーが語った「心に余裕(ヒマ)がある生物」である人間の素晴らしさ。しかし、この台詞は根本的な部分でなにかが違う気がしてならない。本当に「心」はそんなに大事だろうか。むしろ、ほとんどの人間は「心」のせいで生きづらくなっているのではないか。
(ユリイカ1月臨時増刊号/総特集岩明均 「ああそうか」海猫沢めろん 本文124ページから125ページより引用)
このコラムを読んで引っかかったのは「あれって人類の肯定か?」ということでした。
確かに、「デビルマン」とは最終的に違う領域にたどり着いたとは思います。
でもあれは、単に「他者を思いやれる人間ていいよね、心があるって素晴らしいよね」という結論じゃあないと思うんです。というか、肯定でも否定でもないんですよ。
なぜなら、「寄生獣」を作った人もそれを読む人もみんな「人類」だから。
要するに「人類が人類語るなよ」なんですよ。
哲学的な内容とかよく言われますが、哲学だの宗教だの神様だの心だの、つまりは「ヒマ」だから考えてしまうことなんです。ほかの動物はみんな「命令」に従っているだけですよ。
人間だけが「命令」に従うだけじゃ満足できない“贅沢な”生き物になっているというだけなんです。そこに善悪はないんです。だって「善悪」こそ、余裕(ヒマ)が持て余す人間が生み出したものだから。
「心」は本当に大事なのかとは、どこで考えているのでしょうか。あなたの「心」でしょう。
「心」が「愚かな“心”よ」とか語るのってちゃんちゃらおかしいよね、てことなんです。
●当たり前のこと
そう考えると「広川」というキャラクターはすごいですね。あれこそ、「寄生獣」を象徴している存在というか、人間が「人類こそ“寄生獣”だ!」と叫ぶ矛盾というか、ナンセンスさを体現していたわけですから。
連載当時、私も「中二病」的なやさぐれ方をしていたときもあったので、海猫沢めろん氏の言わんとすることもわからないでもないのですが、やっぱり「広川」が人間だったということを知った時の衝撃は忘れられないんですね。あれで、本当にぶっ叩かれましたから。
ああ、人間不信とか言っている俺も人間だよな、という極めて当たり前のことを改めて認識したときの脱力感というか、馬鹿馬鹿しさといったらなかったです。
確かに、「寄生獣」という作品はある種の“俯瞰”的視点というか、どこか人間を突き放して観察している部分があるので、そういう「毒」に侵されてしまう面もあります。
でも、いくら人間には意味がない、心にも意味がない、と断罪しても、それをするのも「人間」であり、「心」がそうさせているんです。そんな当たり前のことを最後に突き付けただけなんですね。
●完結編に望むこと
今回の映画では「母親」というテーマ以外にも、人間側のほうが圧倒的な優位なのだということが描かれています。
最初のほうで、コンビニの防犯カメラにパラサイトが店員を捕食する場面が映っているシーンがあったりもして、かなり早い段階で国家権力が状況を把握しているだろうことが仄めかされています。
また、かなり早い段階で広川が登場したり、パラサイト側が人間を恐れてネットワークを構築している面が強調されてもいます。
山崎監督によりますと、完結編ではパラサイトよりも人間のほうが危険じゃないか?といったテーマが浮き上がってくるそうですが、なるほど確かに、そういう布石を打ってはいますね。
ただ、「人間は地球にとって危険だ」で終わるような単なる“環境保護映画”になることはないでしょう。
なぜなら、この映画でも「広川」という人物がかなりキーマンになりそうな感じだったからです。
もちろん、彼を単に「人間のくせに人間を蔑む愚か者」と断罪するのも違うでしょう。
彼も新一と同じように、「パラサイト」と「人間」の間にいた存在だったのですから。
というか、だれもが一度は、「広川」のようなことを考えてしまうのですから。
そう、本当に人間って「余裕(ヒマ)」な生き物ですよね。
映画「寄生獣」完結編。
ここまで原作と違うものを今更、どうこうとは思いません。
ただ、結論だけは、人類肯定でも人類否定でもないものにしてほしいなと思います。
![]() | ユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均 -『風子のいる店』『寄生獣』から『七夕の国』、そして『ヒストリエ』へ (2014/12/12) 岩明均、染谷将太 他 商品詳細を見る |
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