なりそこないの昔話5~奇面組のこと(アオイホノオ第5話より)~
テレ東系ドラマ「アオイホノオ」第5話は持ち込み編。
サンデーとジャンプの対比が面白かったですね。
特にMADホーリィは最高でしたw
といわけで、今回の昔話は“絵の下手な新人に優しい”ジャンプが誇る名作、新沢基栄の「奇面組」シリーズについてです。
奇面組というと、今の人にとってはどんな印象でしょうか。
やはりアニメの「ハイスクール!奇面組」が思い浮かぶかもしれません。
でも、私にとっては「奇面組」といえば何といっても「3年奇面組」でした。
「3年奇面組」は、「アオイホノオ」のモユルの発言“素人っぽさだって売りにしてくれるんだよジャンプは!!”をまさに体現化してくれるような作品です。
「絵が下手」なだけではなく、とにかく「マンガが下手」なんです。
その辺は当時のサンデーの新人と比べると歴然ですね。
細野不二彦や岡崎つぐおなんてとても新人とは思えないくらい、最初から「完成」されていましたからね。
この辺は作者も「漫研とかサークル活動の経験はありません。すべて我流です。」(「3年奇面組」コミックス6巻より)と言っているように、「3年奇面組」はとにかく、勢いだけで突っ走っていた感がありました。
でも、そこが、まさに「奇面組」の魅力だったんですね。
テンポやキャラクターの特徴の比較だけで笑わせてしまうセンスは当然「ドリフ」から影響を受けているでしょうし、
突っ込みのセンスは「がきデカ」の影響が大きいでしょう。
それでも「奇面組」は、モユルがいうように“新しいタイプのギャグマンガ”でした。
サンデーとジャンプの対比が面白かったですね。
特にMADホーリィは最高でしたw
といわけで、今回の昔話は“絵の下手な新人に優しい”ジャンプが誇る名作、新沢基栄の「奇面組」シリーズについてです。
奇面組というと、今の人にとってはどんな印象でしょうか。
やはりアニメの「ハイスクール!奇面組」が思い浮かぶかもしれません。
でも、私にとっては「奇面組」といえば何といっても「3年奇面組」でした。
「3年奇面組」は、「アオイホノオ」のモユルの発言“素人っぽさだって売りにしてくれるんだよジャンプは!!”をまさに体現化してくれるような作品です。
「絵が下手」なだけではなく、とにかく「マンガが下手」なんです。
その辺は当時のサンデーの新人と比べると歴然ですね。
細野不二彦や岡崎つぐおなんてとても新人とは思えないくらい、最初から「完成」されていましたからね。
この辺は作者も「漫研とかサークル活動の経験はありません。すべて我流です。」(「3年奇面組」コミックス6巻より)と言っているように、「3年奇面組」はとにかく、勢いだけで突っ走っていた感がありました。
でも、そこが、まさに「奇面組」の魅力だったんですね。
テンポやキャラクターの特徴の比較だけで笑わせてしまうセンスは当然「ドリフ」から影響を受けているでしょうし、
突っ込みのセンスは「がきデカ」の影響が大きいでしょう。
それでも「奇面組」は、モユルがいうように“新しいタイプのギャグマンガ”でした。
なぜなら「我流」だったから。
「セリフをわかりやすく」とか「ページ配分を考える」とかそういうバランスを一切考慮せずに、
ただ自分が面白いと思えるものを「無我夢中」に描くだけという姿勢が奇跡的にうまくはまったんですね。
今読んでもたとえば、
「馬鹿なマネやめてよね」「馬場のマネ?」→「ボクジャイアント馬場!とくいワザはきっくとちょっぷだっ!!」とか、
こうして文章にすると全然面白くもないギャグですが、やっぱり一堂零と宇留千絵の掛け合いで見ると笑ってしまうんですよね。
他にも、「筋肉大移動」とか「水とお友だちになって水をねじまげる」とか、小学生並のノリが平気で出てくるのですが、
そういったことを臆面もなく平気でやってしまうところに、唯一無比な魅力があったのです。
また、新沢基栄氏が当初、「ラブコメ」「青春もの」志向だったという点も「新しさ」に実は影響を与えていました。
(この辺は「3年奇面組」コミックス6巻のウラ話コーナーを参照していただくとよくわかります)
「奇面組」はどこか「生真面目」さがあるんですよね。
どこでだったか、日本橋ヨヲコ氏もマイフェイバリット漫画に「奇面組」をあげていたのですが、やっぱり「青春マンガ」なんですよ。
一堂零が“奇面組”を結成した理由とかを見ても、根底にはシリアスな面があることがわかりますよね。
この「青春成分」がギャグを下品にさせずに、笑いの質を高めていたような気がするんです。
つまり、ノリと勢いだけの笑いをうまくコントロールしていたんですね。
ただ、その「生真面目」さは、後に「ハイスクール!奇面組」において、
「タイムマシン問題」や「最終回問題」を生み出してしまうことになります。
「ハイスクール!奇面組」は主人公たちが作中で進学したためにタイトル変更をして、改めて仕切り直しした作品です。
このギャグマンガ世界で主人公が年を取るというのも実は作者の生真面目さをよく表しているんですね。
新沢氏曰く、「しらじらしいから」とのことだったわけですが、この辺にも「ラブコメ」志向だった“名残”が見えます。
まあ、本来なら高校卒業まで描いて最終回を迎えられれば、それでよかったわけです。
ところが、作中において高校生活も終わりが近づくにつれ、問題が起こってきます。
そう、アニメ化の影響もあるのでしょうが、編集部が「人気にあるうちは」と連載継続を要求してきたのです。
これに関しては、はっきり言って、新沢さんは「ジャンプ」という舞台で連載している意味をあまりに軽く考えていたと言わざるを得ません。
「ジャンプ」といえば“連載無理やり引き伸ばし”は当然頭に入れておくべき必須事項なはずでした。
結果、「奇面組」は「タイムマシン」で1年を巻き戻す、というそれこそ「しらじらしい」展開を余儀なくされます。しかもこれを2回も繰り返すのです。
終盤のこの醜態は読んでいて辛かったですね。なんていうか、作者の苦しみが紙面から伝わってきてしまうんですよ。
やめたい、やめられない、という辛さが読者に伝わってしまうんですから、ギャグマンガとしては致命的です。
マンネリ化とともに、だんだん搾りとられて終わっていくのは火を見るより明らかでした。
で、いよいよ最終回を迎えるわけですが、これがまた物議を呼ぶわけです。俗にいう「夢オチ」騒動ですね。
まあ、要するにすべてはヒロインの河川唯の妄想だったかのごとく、最後に「3年奇面組」の世界、つまり中学時代に戻ってしまうわけです。
で、奇面組の面々も「ただの空想だったのかもしれない」と。
いやあ、今だったら確実にネットで大炎上でしょうね。
もちろん、これにはいろいろあって、作者は「夢オチではなく、どちらとも取れるようにした」と語り、
その後の愛蔵版などでは零君のシルエットを最後のコマに追加したりしているそうですが、個人的には問題はそんなところではないと思っているんですね。
別に「夢オチ」でもいいんですよ。
ギャグなんだし、そんなことで今までのことがなかったことにはならないと私は思うんです。
それに最終回では彼らの5年後の姿まで描いちゃっているわけで、あれを「現実」とすることはギャグマンガとしてはよろしくない、といったニュアンスもわかるんで、
未来を描いた後にリセットするというのはアリだとは思うんですね。
私がどうしても納得いかなかったのは、ただひとつ。
なんで「唯の夢」ということにするんだ、ということなんです。
これじゃ、河川唯が主人公の作品になってしまうんですよ。主人公は一堂零なはずなんです。そういうテーマだったはずなんです。
それまで「青春もの」ばかり書いていた作者が、専門学校を卒業して最後の応募と決めて書いたカット。
それが、まるでそれまでのラブコメ路線をひっくり返すようにわりこんできた「一堂零」だったんですから。
彼が何かやりそうだから、何か言いたそうだから、なぜか自分とだぶったから、
それまでの青春路線を捨ててギャグに向かったわけでしょう。(「3年奇面組」コミックス6巻より)
だったら、最後は一堂零でしょう。河川唯や宇留千絵を空想している中学時代の一堂零でしょう!
「空想か正夢か」わからない存在なら唯であるべきなんです。
人に合わせられずに不器用に生きる零を唯一認めてくれた存在。そんな存在は確かにただの空想なのかもしれない。でも、わたしは信じたい。彼女らはきっといると――。
こう締めてくれたなら、たとえ多くのファンが「夢オチ」と糾弾しても私は最高の最終回だったと思います。
「奇面組」は奇面組が主人公だったはずなのです。あの変な顔と性格をした心優しいやつらは確かにあのマンガのなかで実在したはずなんです。
“願望”だったとするならば、それは唯であり、千絵のほうだったはずなのです。
一堂零の存在は決して唯の“願望”ではないんです。そうしたらダメなんですよ。
それはギャグマンガ「奇面組」としての敗北宣言に近い。こんな面白いやついるわけねーだろ、と言っているのに等しいわけですからね。
きっと、ああいうラストにしたのは新沢さんの「生真面目」さが悪い方向に出てしまったんだと思います。
彼はどこか一堂零という存在を信じ切っていなかったのではないでしょうか。こんな非常識で魅力的なやつなんているわけがないと。
あと、最終回の一話前、「唯ちゃんの気持ち…」とか見ると、本当はまだ、こういった“青春もの”に未練があったのかも、という気もしますね。別に最後になって“唯ちゃん”目線で描くこともなかったと思うんですけどねえ。
でもああいったシーンは零君目線では描けなかったでしょうね。
まあ、いろいろともったいない部分も多い作品ではあります。
けっきょく、新沢基栄氏は「奇面組」終了以降ヒットを飛ばせず、持病が悪化したこともあって、現在では漫画家としては半ば引退状態となっているようです。
ただ、「奇面組」という作品を世に残したという点で、私の中ではマンガ史に残る存在ですね。
当時の流行などが当たり前に出てくる作風なので、さすがに今の感覚で読むと古い印象は否めませんが、
そこは古典と割り切って、興味が湧いた方にはまずは「3年奇面組」だけでも是非。
「3年奇面組」および「ハイスクール!奇面組」は赤松健氏が運営されている絶版マンガ図書館(旧Jコミ)にて無料で読むことができます。
絶版マンガ図書館(旧Jコミ)
ちなみに「3年奇面組」最終巻である6巻の巻末あいさつ「ご声援、ありがとう!奇面組もようやく卒業」は必読です。
ここに書かれているキャラクターについての話はどんな漫画論よりも価値があると思っています。
「セリフをわかりやすく」とか「ページ配分を考える」とかそういうバランスを一切考慮せずに、
ただ自分が面白いと思えるものを「無我夢中」に描くだけという姿勢が奇跡的にうまくはまったんですね。
今読んでもたとえば、
「馬鹿なマネやめてよね」「馬場のマネ?」→「ボクジャイアント馬場!とくいワザはきっくとちょっぷだっ!!」とか、
こうして文章にすると全然面白くもないギャグですが、やっぱり一堂零と宇留千絵の掛け合いで見ると笑ってしまうんですよね。
他にも、「筋肉大移動」とか「水とお友だちになって水をねじまげる」とか、小学生並のノリが平気で出てくるのですが、
そういったことを臆面もなく平気でやってしまうところに、唯一無比な魅力があったのです。
また、新沢基栄氏が当初、「ラブコメ」「青春もの」志向だったという点も「新しさ」に実は影響を与えていました。
(この辺は「3年奇面組」コミックス6巻のウラ話コーナーを参照していただくとよくわかります)
「奇面組」はどこか「生真面目」さがあるんですよね。
どこでだったか、日本橋ヨヲコ氏もマイフェイバリット漫画に「奇面組」をあげていたのですが、やっぱり「青春マンガ」なんですよ。
一堂零が“奇面組”を結成した理由とかを見ても、根底にはシリアスな面があることがわかりますよね。
この「青春成分」がギャグを下品にさせずに、笑いの質を高めていたような気がするんです。
つまり、ノリと勢いだけの笑いをうまくコントロールしていたんですね。
ただ、その「生真面目」さは、後に「ハイスクール!奇面組」において、
「タイムマシン問題」や「最終回問題」を生み出してしまうことになります。
「ハイスクール!奇面組」は主人公たちが作中で進学したためにタイトル変更をして、改めて仕切り直しした作品です。
このギャグマンガ世界で主人公が年を取るというのも実は作者の生真面目さをよく表しているんですね。
新沢氏曰く、「しらじらしいから」とのことだったわけですが、この辺にも「ラブコメ」志向だった“名残”が見えます。
まあ、本来なら高校卒業まで描いて最終回を迎えられれば、それでよかったわけです。
ところが、作中において高校生活も終わりが近づくにつれ、問題が起こってきます。
そう、アニメ化の影響もあるのでしょうが、編集部が「人気にあるうちは」と連載継続を要求してきたのです。
これに関しては、はっきり言って、新沢さんは「ジャンプ」という舞台で連載している意味をあまりに軽く考えていたと言わざるを得ません。
「ジャンプ」といえば“連載無理やり引き伸ばし”は当然頭に入れておくべき必須事項なはずでした。
結果、「奇面組」は「タイムマシン」で1年を巻き戻す、というそれこそ「しらじらしい」展開を余儀なくされます。しかもこれを2回も繰り返すのです。
終盤のこの醜態は読んでいて辛かったですね。なんていうか、作者の苦しみが紙面から伝わってきてしまうんですよ。
やめたい、やめられない、という辛さが読者に伝わってしまうんですから、ギャグマンガとしては致命的です。
マンネリ化とともに、だんだん搾りとられて終わっていくのは火を見るより明らかでした。
で、いよいよ最終回を迎えるわけですが、これがまた物議を呼ぶわけです。俗にいう「夢オチ」騒動ですね。
まあ、要するにすべてはヒロインの河川唯の妄想だったかのごとく、最後に「3年奇面組」の世界、つまり中学時代に戻ってしまうわけです。
で、奇面組の面々も「ただの空想だったのかもしれない」と。
いやあ、今だったら確実にネットで大炎上でしょうね。
もちろん、これにはいろいろあって、作者は「夢オチではなく、どちらとも取れるようにした」と語り、
その後の愛蔵版などでは零君のシルエットを最後のコマに追加したりしているそうですが、個人的には問題はそんなところではないと思っているんですね。
別に「夢オチ」でもいいんですよ。
ギャグなんだし、そんなことで今までのことがなかったことにはならないと私は思うんです。
それに最終回では彼らの5年後の姿まで描いちゃっているわけで、あれを「現実」とすることはギャグマンガとしてはよろしくない、といったニュアンスもわかるんで、
未来を描いた後にリセットするというのはアリだとは思うんですね。
私がどうしても納得いかなかったのは、ただひとつ。
なんで「唯の夢」ということにするんだ、ということなんです。
これじゃ、河川唯が主人公の作品になってしまうんですよ。主人公は一堂零なはずなんです。そういうテーマだったはずなんです。
それまで「青春もの」ばかり書いていた作者が、専門学校を卒業して最後の応募と決めて書いたカット。
それが、まるでそれまでのラブコメ路線をひっくり返すようにわりこんできた「一堂零」だったんですから。
彼が何かやりそうだから、何か言いたそうだから、なぜか自分とだぶったから、
それまでの青春路線を捨ててギャグに向かったわけでしょう。(「3年奇面組」コミックス6巻より)
だったら、最後は一堂零でしょう。河川唯や宇留千絵を空想している中学時代の一堂零でしょう!
「空想か正夢か」わからない存在なら唯であるべきなんです。
人に合わせられずに不器用に生きる零を唯一認めてくれた存在。そんな存在は確かにただの空想なのかもしれない。でも、わたしは信じたい。彼女らはきっといると――。
こう締めてくれたなら、たとえ多くのファンが「夢オチ」と糾弾しても私は最高の最終回だったと思います。
「奇面組」は奇面組が主人公だったはずなのです。あの変な顔と性格をした心優しいやつらは確かにあのマンガのなかで実在したはずなんです。
“願望”だったとするならば、それは唯であり、千絵のほうだったはずなのです。
一堂零の存在は決して唯の“願望”ではないんです。そうしたらダメなんですよ。
それはギャグマンガ「奇面組」としての敗北宣言に近い。こんな面白いやついるわけねーだろ、と言っているのに等しいわけですからね。
きっと、ああいうラストにしたのは新沢さんの「生真面目」さが悪い方向に出てしまったんだと思います。
彼はどこか一堂零という存在を信じ切っていなかったのではないでしょうか。こんな非常識で魅力的なやつなんているわけがないと。
あと、最終回の一話前、「唯ちゃんの気持ち…」とか見ると、本当はまだ、こういった“青春もの”に未練があったのかも、という気もしますね。別に最後になって“唯ちゃん”目線で描くこともなかったと思うんですけどねえ。
でもああいったシーンは零君目線では描けなかったでしょうね。
まあ、いろいろともったいない部分も多い作品ではあります。
けっきょく、新沢基栄氏は「奇面組」終了以降ヒットを飛ばせず、持病が悪化したこともあって、現在では漫画家としては半ば引退状態となっているようです。
ただ、「奇面組」という作品を世に残したという点で、私の中ではマンガ史に残る存在ですね。
当時の流行などが当たり前に出てくる作風なので、さすがに今の感覚で読むと古い印象は否めませんが、
そこは古典と割り切って、興味が湧いた方にはまずは「3年奇面組」だけでも是非。
「3年奇面組」および「ハイスクール!奇面組」は赤松健氏が運営されている絶版マンガ図書館(旧Jコミ)にて無料で読むことができます。
絶版マンガ図書館(旧Jコミ)
ちなみに「3年奇面組」最終巻である6巻の巻末あいさつ「ご声援、ありがとう!奇面組もようやく卒業」は必読です。
ここに書かれているキャラクターについての話はどんな漫画論よりも価値があると思っています。
スポンサーサイト