これはピストルスターをめぐる物語~映画「いなくなれ、群青」を見て~
映画「いなくなれ、群青」を見てきました。

感想を一言で述べるなら、良かったです。
映像化はある意味「サクラダリセット」以上に難しいのではないかと思っていた部分もあったのですが、全然そんなことはなかったですね。
まさに心を穿つ作品になっていたと思います。
そういえば、「サクラダリセット」が映画化することが決まった際に、
> 映像化があるとしても、現在進行形である「いなくなれ、群青」から始まる「階段島」シリーズのほうだと思い込んでいた
と書いていたことを思い出しました。
で、その後に、
> やっぱりKADOKAWAの力も大きいのかな?
> 考えてみれば「階段島」シリーズは新潮社ですからねえ。メディアミックスにはそれほど前向きでもないでしょうし。
とも、ぼやいていたんですよね。
あの頃は、まさか本当に「いなくなれ、群青」が映画化されるとは思いもしませんでした。で、今回の映画の配給が思いっきり「KADOKAWA」というw
いやあ、ホント感慨深いw
というわけで、今から感想を綴っていくわけですが、私は普段あまり映画を見ないタチなので、「映画」論みたいなことは語れません。
あくまで原作ファンの立場から、「いなくなれ、群青」としてどうだったかを思いつくまま述べていく形になります。基本、ネタバレはありませんので、未見の方も大丈夫かと。
ただ、「階段島」とは何かみたいな話は出てきますので、その辺も含めてまったくの予備知識がないまま見たい人はご注意ください。
●「よけいな情報」はいらない
さて、先ほど冒頭では良かったと述べましたが、実は見始めてからしばらくは、原作ファンとしてあれ?と思うことばかりだったんですよ。
え、トクメ先生仮面付けてないじゃん!おいおい、ハルさんにしてもナドにしてもなんかチャラ過ぎない?え、バイオリン?まさか豊川さんの話もやるの?
……とまあ、こんな感じで、正直かなり戸惑いました。
シリーズ物とはいっても一作目で綺麗に完結しているお話ですし、続編を前提としているような作品でもないので、てっきり普通に「いなくなれ、群青」を忠実に映像化するものと思い込んでいたわけです。
でも、シリーズの中でも特に重要なキャラクターである「相原大地」が出てこないということに気がついたとき、すべてを諒解しました。
これは6作にも及ぶ長期シリーズをひとつの映画にまとめる必要があるからこそ、なるべくシンプルに届く作品にしようとした結果なのだと。
そう考えたとたん、スクリーンに映る世界に素直に入り込むことができました。まるで自分も階段島の住人になったかのような気持ちになりましたね。
この作品で一番描かなければならないことは、主人公・七草のピストルスターへの思いです。それ以外は枝葉末節といってもいいくらいです。
トクメ先生の仮面も、ハルさんの面倒見のよいキャラも、はたまた配電塔の中田さんも、この映画においては必要ありません。
原作のすべての要素を詰め込もうとして焦点のぼやけた作品になるよりは、シンプルにテーマを定めて作り上げるべきなのです。
もし、シリーズ6作すべてを映像化するというならまた話は別でしょう。でも、これはそうではありません。
こういってはなんですが、初めからあまり大ヒットを想定していないような上映館数ですからね。(もしかすると、「サクラダリセット」の大爆死で懲りたのかもしれませんがw)
1作のみで「階段島」の魅力を描くとなれば、逆にトクメ先生の仮面なんてよけいな情報になりかねませんよ。
そこに力を注がなくても、あの島が「捨てられた人たち」の島なんだということの意味がわかればおのずとあの島の住人について思いを寄せられるはずなんです。
「相原大地」に関しては、特に「よけいな情報」ですからね。
あの子を出してしまえば、必然的に「階段島シリーズ」の最後までしっかり映画化しないといけないでしょう。この一作のみで終わりなんて到底許されません。彼はシリーズ全体を通してあまりに大きな意味を持つ存在ですから。
大地を登場させなかったということは、むしろこの映画のスタッフがちゃんと原作を読み込んで制作に臨んだ証左になるんです。そんな「大作」にするよりは、ピストルスターをめぐる話をシンプルに届けたいと願った結果だったのでしょう。
●「捨てられた」理由
その代わりに、シリーズ2作目「その白さえ嘘だとしても」のエピソード「中等部の豊川さん」を挿入したのも、トータルで見ると納得させられます。
というのも、1作目の「いなくなれ、群青」では、クラスメイトの佐々岡や水谷さんのキャラがあまり立っていないんですよ。続編があることを前提とするならともかく、「いなくなれ」だけでは彼らの人間性や魅力は伝わらないんです。
例えば、言葉だけで「捨てられた人格」と言われてもイマイチぴんときませんよね?
これは要するに、人が成長する過程で捨てられる「欠点の人格」のことなのですが、そう言われても具体的に彼らがどう欠落した存在なのかが理解しずらいと思います。
ところが、1作目の時点では七草と真辺の話に重点を置いているため、彼らはあくまで話を動かす舞台装置に徹しているんです。「いなくなれ、群青」だけを忠実に映像化すると、彼らが階段島にいる理由は見えてこないでしょう。
2作目である「その白さえ嘘だとしても」では、語り部が七草の他に佐々岡、水谷、時任さんが加わります。そこで初めて、彼らが何を考えどんな思いで毎日を過ごしているのかがわかるんですね。もっと言うなら、彼らが「捨てられた」理由も見えてくるわけなんです。
女の子が泣いていたから、助ける。
佐々岡は、こんな馬鹿みたいに純粋なヒーロー願望を持っています。
誰にも嫌われたくないから、優しいふりをする。
水谷さんは、自分を認めてもらうためなら自分をも捨てられるような、そんな切ない弱さを持っています。
どちらも、生きていく上では色々問題のある“人格”です。成長するためにはどこかで変わる必要があるのかもしれません。でも、変わったら、元の人格はどこに行くんでしょう?
どこかいびつで、融通の利かない困った性格の彼ら。その痛々しくも愛おしい姿を見れば、きっと彼らがこの島にやってきた理由が実感として理解できるはずです。
●「映像美」と「音楽」が織りなす「階段島」
映画の感想をいくつか漁ってみると、多くの方が「映像美」について触れていましたね。確かに、映像の美しさは特筆すべきものがありました。
でも何より素晴らしかったのは、その美しさが織りなす風景であり、雰囲気だったんだと思います。
要するに、「階段島」がもし存在するならこういう所だろうと思わせるイマジネーションがあるんです。
これは原作を読んでいる方ならよけいにそう感じることでしょう。きっと、あの階段島が目の前に!といった新鮮さが味わえるはずです。
実際のロケは伊豆で行われたそうですが、いい意味で現実感を感じませんでしたね。「どこにもないどこか」でも、実際に存在しているようなそんな不思議な場所として、階段島はそこにありました。そして、「捨てられた人たち」もどこかでこんな風に毎日を送っているのかもしれない。そんな気持ちにさせられる「映像美」でしたね。
あとはなんといっても「音楽」ですね。
豊川さんが弾くバイオリンはとにかく美しい!劇中のBGMとしても、映像の邪魔にならずに世界観に溶け込んでいて、思わず聞き惚れてしまいました。いったい誰が担当しているんだろうと思いきや、神前暁さん!そう、「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズをはじめ、多くのアニメ作品の音楽を手がけてきた、あの神前暁さんです。
アニメ音楽を主に作っていた方なので、はたしてあの静かな世界観と合うのかどうか気になる向きもあるかもしれませんが、まったくそんな心配は無用でしたね。ひょっとして、音楽の存在感を高めたいがために、豊川さんのエピソードを挿入したのではないかと思ってしまうくらい映像とマッチしていましたよ。
そして、印象的な主題歌をプロデュースしたのは、あの小林武史さん!彼についてはもう説明は不要でしょう。数々の大物アーティストを手掛けているのはもちろん、映画音楽に関しても「スワロウテイル」をはじめとして、数多くの作品を世に放ってきた方です。
「映像」のプロと「音楽」のプロが力を合わせて作り上げた「階段島」。それは、まるで魔女の魔法のようにも感じられましたね。
●「階段」は上るためだけのものではない
もちろん、いいところばかりではありません。いくつか首をかしげてしまう部分はありました。
特に、途中途中で挟まる、「プロローグ」「第一話」「第二話」みたいな題目は蛇足でしょう。
おそらく、文学的なテイストを意識したのかとは思いますが、逆に「映像」と「音楽」で織りなす“映画”という表現の邪魔になっているようにしか感じませんでした。
あれが入るたびに、現実世界に引き戻されるような気がして、気持ちよく「階段島」の住民になれなかったのは残念でしたね。
あとひとつ不満を述べるなら、「捨てた側」のことがまったくといっていいほど無視されていたことです。
実は原作では、「捨てられた人たち」だけではなく、「捨てた人たち」の話も出てくるんですよ。今回の映画を観ると、「捨てた人たち」はなんて非情で冷たいんだろうと思う方もいるかもしれませんが、本当はそんなことは決してないんです。「捨てた側」だっていろいろ悩んでいるんです。ゴミ箱に捨てたらすっきりハッピーなんてことはないんです。
階段島の「階段」は、もちろん「成長」の暗喩です。映画では魔女が住んでいるといわれる階段を上ることで答えが見つかることが示唆されます。そこで上り切ったものは、二度と戻ってこないといわれますが、要するにそれは欠落した人格が成長して大人になったという意味なのです。(この映画では、ある人物が突然島から消えてしまいますが、実はそれは本人が捨てたものをもう一度拾い上げたということなのです。それは本来、喜ばしいことなのでしょう)
でも、階段というのは、上るだけではありませんよね?降りる必要だってあるはずです。
実は、原作の「いなくなれ、群青」では、「捨てられた」七草と「捨てた」七草が交わるシーンがあります。もっというなら、本来階段島に来るべきではなかった「理想主義者」の真辺を捨てた“真辺”も3作目の「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」で登場します。
彼も彼女も、要らなくなった自分を捨ててさあもっと上に登ろうなんて考えているわけではありません。
自分の一部を捨てたことに悩み傷つき、時には何度も「階段」を降りようとしながら、毎日を必死で生きているのです。
私には、彼らと「階段島」の彼らはそんなに違うとは思えません。やっぱり「七草」は「七草」のままですし、「真辺」はどうしようもなく「真辺」なのです。
では、いったいどこが変わったのか。
そこも実はすごく大きなテーマだと思うんですよ。
この映画では、そこをばっさり切り捨ててしまったことにどうしようもなく違和感を覚えざるを得ません。
もしかしたら、この作品のために捨てられた「捨てた人たち」も、どこかの島でひっそりと生活しているのかもしれませんがw
●これから「階段」を上る人たちへ
キャスティングや俳優さんたちの演技についても特に何も言うことはありませんね。
みなさんそれぞれ、自分の演じるキャラクターにみずみずしい命を吹き込んでいたと思います。若い人たちばかりなのが逆にいい効果を生んでいたようにも感じましたよ。
特に素晴らしいと感じたのはなんといっても、掘役を演じていた矢作穂香さんですね。堀という子は、作品の中でももっとも難しい役どころだと思うのですが、彼女はそれを感じさせることなく、自然とあの島に溶け込んでいたのには感心させられました。
「ああ堀ってこんな感じの子だったんだ」と思わせる存在感がそこにはありましたよ。
まあ強いて突っ込ませてもらうなら、「この島、美男美女多すぎだろ」という感は否めませんでしたけどねw アイドル映画としては当然なんでしょうけど。
ただ、とにかく本当に若い人に見てもらいたい映画です。
そのためになるのでしたら、人気俳優ばかり配するのもいいじゃないかくらいまで思いましたよ。これから「階段」を上る人、「階段」を上るのに疲れてしまった人、すべての人にお薦めですね。
今回の映画は、主役の七草役の横浜流星さんをはじめ、今人気のイケメン俳優が多く出演されているため、劇場では若い女性たちのグループが目に付きました。どちらかというと、カップルや私のようなじじい(笑)よりも、2、3人の女子高校生同士が多かったですね。
そういえば、映画を見ている時にこんなことがありました。
上映が始まるのを待っている間、ちょうど私の後ろに女子高校生らしき二人組が座ったんです。おそらく、原作のことは何も知らずに出演している誰かのファンの子たちなのでしょう、何君がどうの何何君はこうのとか、まあきゃいきゃいとそれは姦しいくらいで、正直閉口してしまいました。
これは今回はずれの席を選んじゃったかなと内心不安だったのですが、映画が始まると静かになったので常識のない子たちではなかったようです。
で、映画が終わってさあ余韻に浸りつつそろそろ席を立とうかとする際に、ふと後ろの席からこんな言葉が聞こえてきたんですよ。
「え、何、なんかすごく良かったんだけど」
思わず頬が緩んでしまったのは言うまでもありません。
「いなくなれ、群青」 「その白さえ嘘だとしても」 「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」
「凶器は壊れた黒の叫び」 「夜空の呪いに色はない」 「きみの世界に、青が鳴る」
映画を堪能したら、次は原作小説をぜひ。
なお、読む順番は「群青」→「白」→「赤」→「黒」→「無(ない)」→「青」です。
間違うと話がちんぷんかんぷんになりますから注意してくださいね。
「さよならの言い方なんて知らない」
こちらは、原作者の河野裕氏の最新作ですけど、「階段島」シリーズではありません。
なんか、販促帯だと紛らわしい書き方をしていますが、だまされないように(笑)。
(完全新作ではなく、以前スニーカー文庫から刊行していた“ウォーター&ビスケットのテーマ”シリーズのリメイク版のようです。そこも注意してくださいね)
「さよならの言い方なんて知らない2」
早くも続編が10月1日に出るようです。
いなくなれ、群青 (角川コミックス・エース) いなくなれ、群青 Fragile Light of Pistol Star(1) (Gファンタジーコミックス)
コミカライズは2種類ありますが、個人的には「角川」版をおすすめします。一冊でサクッと読めますし。

感想を一言で述べるなら、良かったです。
映像化はある意味「サクラダリセット」以上に難しいのではないかと思っていた部分もあったのですが、全然そんなことはなかったですね。
まさに心を穿つ作品になっていたと思います。
そういえば、「サクラダリセット」が映画化することが決まった際に、
> 映像化があるとしても、現在進行形である「いなくなれ、群青」から始まる「階段島」シリーズのほうだと思い込んでいた
と書いていたことを思い出しました。
で、その後に、
> やっぱりKADOKAWAの力も大きいのかな?
> 考えてみれば「階段島」シリーズは新潮社ですからねえ。メディアミックスにはそれほど前向きでもないでしょうし。
とも、ぼやいていたんですよね。
あの頃は、まさか本当に「いなくなれ、群青」が映画化されるとは思いもしませんでした。で、今回の映画の配給が思いっきり「KADOKAWA」というw
いやあ、ホント感慨深いw
というわけで、今から感想を綴っていくわけですが、私は普段あまり映画を見ないタチなので、「映画」論みたいなことは語れません。
あくまで原作ファンの立場から、「いなくなれ、群青」としてどうだったかを思いつくまま述べていく形になります。基本、ネタバレはありませんので、未見の方も大丈夫かと。
ただ、「階段島」とは何かみたいな話は出てきますので、その辺も含めてまったくの予備知識がないまま見たい人はご注意ください。
●「よけいな情報」はいらない
さて、先ほど冒頭では良かったと述べましたが、実は見始めてからしばらくは、原作ファンとしてあれ?と思うことばかりだったんですよ。
え、トクメ先生仮面付けてないじゃん!おいおい、ハルさんにしてもナドにしてもなんかチャラ過ぎない?え、バイオリン?まさか豊川さんの話もやるの?
……とまあ、こんな感じで、正直かなり戸惑いました。
シリーズ物とはいっても一作目で綺麗に完結しているお話ですし、続編を前提としているような作品でもないので、てっきり普通に「いなくなれ、群青」を忠実に映像化するものと思い込んでいたわけです。
でも、シリーズの中でも特に重要なキャラクターである「相原大地」が出てこないということに気がついたとき、すべてを諒解しました。
これは6作にも及ぶ長期シリーズをひとつの映画にまとめる必要があるからこそ、なるべくシンプルに届く作品にしようとした結果なのだと。
そう考えたとたん、スクリーンに映る世界に素直に入り込むことができました。まるで自分も階段島の住人になったかのような気持ちになりましたね。
この作品で一番描かなければならないことは、主人公・七草のピストルスターへの思いです。それ以外は枝葉末節といってもいいくらいです。
トクメ先生の仮面も、ハルさんの面倒見のよいキャラも、はたまた配電塔の中田さんも、この映画においては必要ありません。
原作のすべての要素を詰め込もうとして焦点のぼやけた作品になるよりは、シンプルにテーマを定めて作り上げるべきなのです。
もし、シリーズ6作すべてを映像化するというならまた話は別でしょう。でも、これはそうではありません。
こういってはなんですが、初めからあまり大ヒットを想定していないような上映館数ですからね。(もしかすると、「サクラダリセット」の大爆死で懲りたのかもしれませんがw)
1作のみで「階段島」の魅力を描くとなれば、逆にトクメ先生の仮面なんてよけいな情報になりかねませんよ。
そこに力を注がなくても、あの島が「捨てられた人たち」の島なんだということの意味がわかればおのずとあの島の住人について思いを寄せられるはずなんです。
「相原大地」に関しては、特に「よけいな情報」ですからね。
あの子を出してしまえば、必然的に「階段島シリーズ」の最後までしっかり映画化しないといけないでしょう。この一作のみで終わりなんて到底許されません。彼はシリーズ全体を通してあまりに大きな意味を持つ存在ですから。
大地を登場させなかったということは、むしろこの映画のスタッフがちゃんと原作を読み込んで制作に臨んだ証左になるんです。そんな「大作」にするよりは、ピストルスターをめぐる話をシンプルに届けたいと願った結果だったのでしょう。
●「捨てられた」理由
その代わりに、シリーズ2作目「その白さえ嘘だとしても」のエピソード「中等部の豊川さん」を挿入したのも、トータルで見ると納得させられます。
というのも、1作目の「いなくなれ、群青」では、クラスメイトの佐々岡や水谷さんのキャラがあまり立っていないんですよ。続編があることを前提とするならともかく、「いなくなれ」だけでは彼らの人間性や魅力は伝わらないんです。
例えば、言葉だけで「捨てられた人格」と言われてもイマイチぴんときませんよね?
これは要するに、人が成長する過程で捨てられる「欠点の人格」のことなのですが、そう言われても具体的に彼らがどう欠落した存在なのかが理解しずらいと思います。
ところが、1作目の時点では七草と真辺の話に重点を置いているため、彼らはあくまで話を動かす舞台装置に徹しているんです。「いなくなれ、群青」だけを忠実に映像化すると、彼らが階段島にいる理由は見えてこないでしょう。
2作目である「その白さえ嘘だとしても」では、語り部が七草の他に佐々岡、水谷、時任さんが加わります。そこで初めて、彼らが何を考えどんな思いで毎日を過ごしているのかがわかるんですね。もっと言うなら、彼らが「捨てられた」理由も見えてくるわけなんです。
女の子が泣いていたから、助ける。
佐々岡は、こんな馬鹿みたいに純粋なヒーロー願望を持っています。
誰にも嫌われたくないから、優しいふりをする。
水谷さんは、自分を認めてもらうためなら自分をも捨てられるような、そんな切ない弱さを持っています。
どちらも、生きていく上では色々問題のある“人格”です。成長するためにはどこかで変わる必要があるのかもしれません。でも、変わったら、元の人格はどこに行くんでしょう?
どこかいびつで、融通の利かない困った性格の彼ら。その痛々しくも愛おしい姿を見れば、きっと彼らがこの島にやってきた理由が実感として理解できるはずです。
●「映像美」と「音楽」が織りなす「階段島」
映画の感想をいくつか漁ってみると、多くの方が「映像美」について触れていましたね。確かに、映像の美しさは特筆すべきものがありました。
でも何より素晴らしかったのは、その美しさが織りなす風景であり、雰囲気だったんだと思います。
要するに、「階段島」がもし存在するならこういう所だろうと思わせるイマジネーションがあるんです。
これは原作を読んでいる方ならよけいにそう感じることでしょう。きっと、あの階段島が目の前に!といった新鮮さが味わえるはずです。
実際のロケは伊豆で行われたそうですが、いい意味で現実感を感じませんでしたね。「どこにもないどこか」でも、実際に存在しているようなそんな不思議な場所として、階段島はそこにありました。そして、「捨てられた人たち」もどこかでこんな風に毎日を送っているのかもしれない。そんな気持ちにさせられる「映像美」でしたね。
あとはなんといっても「音楽」ですね。
豊川さんが弾くバイオリンはとにかく美しい!劇中のBGMとしても、映像の邪魔にならずに世界観に溶け込んでいて、思わず聞き惚れてしまいました。いったい誰が担当しているんだろうと思いきや、神前暁さん!そう、「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズをはじめ、多くのアニメ作品の音楽を手がけてきた、あの神前暁さんです。
アニメ音楽を主に作っていた方なので、はたしてあの静かな世界観と合うのかどうか気になる向きもあるかもしれませんが、まったくそんな心配は無用でしたね。ひょっとして、音楽の存在感を高めたいがために、豊川さんのエピソードを挿入したのではないかと思ってしまうくらい映像とマッチしていましたよ。
そして、印象的な主題歌をプロデュースしたのは、あの小林武史さん!彼についてはもう説明は不要でしょう。数々の大物アーティストを手掛けているのはもちろん、映画音楽に関しても「スワロウテイル」をはじめとして、数多くの作品を世に放ってきた方です。
「映像」のプロと「音楽」のプロが力を合わせて作り上げた「階段島」。それは、まるで魔女の魔法のようにも感じられましたね。
●「階段」は上るためだけのものではない
もちろん、いいところばかりではありません。いくつか首をかしげてしまう部分はありました。
特に、途中途中で挟まる、「プロローグ」「第一話」「第二話」みたいな題目は蛇足でしょう。
おそらく、文学的なテイストを意識したのかとは思いますが、逆に「映像」と「音楽」で織りなす“映画”という表現の邪魔になっているようにしか感じませんでした。
あれが入るたびに、現実世界に引き戻されるような気がして、気持ちよく「階段島」の住民になれなかったのは残念でしたね。
あとひとつ不満を述べるなら、「捨てた側」のことがまったくといっていいほど無視されていたことです。
実は原作では、「捨てられた人たち」だけではなく、「捨てた人たち」の話も出てくるんですよ。今回の映画を観ると、「捨てた人たち」はなんて非情で冷たいんだろうと思う方もいるかもしれませんが、本当はそんなことは決してないんです。「捨てた側」だっていろいろ悩んでいるんです。ゴミ箱に捨てたらすっきりハッピーなんてことはないんです。
階段島の「階段」は、もちろん「成長」の暗喩です。映画では魔女が住んでいるといわれる階段を上ることで答えが見つかることが示唆されます。そこで上り切ったものは、二度と戻ってこないといわれますが、要するにそれは欠落した人格が成長して大人になったという意味なのです。(この映画では、ある人物が突然島から消えてしまいますが、実はそれは本人が捨てたものをもう一度拾い上げたということなのです。それは本来、喜ばしいことなのでしょう)
でも、階段というのは、上るだけではありませんよね?降りる必要だってあるはずです。
実は、原作の「いなくなれ、群青」では、「捨てられた」七草と「捨てた」七草が交わるシーンがあります。もっというなら、本来階段島に来るべきではなかった「理想主義者」の真辺を捨てた“真辺”も3作目の「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」で登場します。
彼も彼女も、要らなくなった自分を捨ててさあもっと上に登ろうなんて考えているわけではありません。
自分の一部を捨てたことに悩み傷つき、時には何度も「階段」を降りようとしながら、毎日を必死で生きているのです。
私には、彼らと「階段島」の彼らはそんなに違うとは思えません。やっぱり「七草」は「七草」のままですし、「真辺」はどうしようもなく「真辺」なのです。
では、いったいどこが変わったのか。
そこも実はすごく大きなテーマだと思うんですよ。
この映画では、そこをばっさり切り捨ててしまったことにどうしようもなく違和感を覚えざるを得ません。
もしかしたら、この作品のために捨てられた「捨てた人たち」も、どこかの島でひっそりと生活しているのかもしれませんがw
●これから「階段」を上る人たちへ
キャスティングや俳優さんたちの演技についても特に何も言うことはありませんね。
みなさんそれぞれ、自分の演じるキャラクターにみずみずしい命を吹き込んでいたと思います。若い人たちばかりなのが逆にいい効果を生んでいたようにも感じましたよ。
特に素晴らしいと感じたのはなんといっても、掘役を演じていた矢作穂香さんですね。堀という子は、作品の中でももっとも難しい役どころだと思うのですが、彼女はそれを感じさせることなく、自然とあの島に溶け込んでいたのには感心させられました。
「ああ堀ってこんな感じの子だったんだ」と思わせる存在感がそこにはありましたよ。
まあ強いて突っ込ませてもらうなら、「この島、美男美女多すぎだろ」という感は否めませんでしたけどねw アイドル映画としては当然なんでしょうけど。
ただ、とにかく本当に若い人に見てもらいたい映画です。
そのためになるのでしたら、人気俳優ばかり配するのもいいじゃないかくらいまで思いましたよ。これから「階段」を上る人、「階段」を上るのに疲れてしまった人、すべての人にお薦めですね。
今回の映画は、主役の七草役の横浜流星さんをはじめ、今人気のイケメン俳優が多く出演されているため、劇場では若い女性たちのグループが目に付きました。どちらかというと、カップルや私のようなじじい(笑)よりも、2、3人の女子高校生同士が多かったですね。
そういえば、映画を見ている時にこんなことがありました。
上映が始まるのを待っている間、ちょうど私の後ろに女子高校生らしき二人組が座ったんです。おそらく、原作のことは何も知らずに出演している誰かのファンの子たちなのでしょう、何君がどうの何何君はこうのとか、まあきゃいきゃいとそれは姦しいくらいで、正直閉口してしまいました。
これは今回はずれの席を選んじゃったかなと内心不安だったのですが、映画が始まると静かになったので常識のない子たちではなかったようです。
で、映画が終わってさあ余韻に浸りつつそろそろ席を立とうかとする際に、ふと後ろの席からこんな言葉が聞こえてきたんですよ。
「え、何、なんかすごく良かったんだけど」
思わず頬が緩んでしまったのは言うまでもありません。
「いなくなれ、群青」 「その白さえ嘘だとしても」 「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」
「凶器は壊れた黒の叫び」 「夜空の呪いに色はない」 「きみの世界に、青が鳴る」
映画を堪能したら、次は原作小説をぜひ。
なお、読む順番は「群青」→「白」→「赤」→「黒」→「無(ない)」→「青」です。
間違うと話がちんぷんかんぷんになりますから注意してくださいね。
「さよならの言い方なんて知らない」
こちらは、原作者の河野裕氏の最新作ですけど、「階段島」シリーズではありません。
なんか、販促帯だと紛らわしい書き方をしていますが、だまされないように(笑)。
(完全新作ではなく、以前スニーカー文庫から刊行していた“ウォーター&ビスケットのテーマ”シリーズのリメイク版のようです。そこも注意してくださいね)
「さよならの言い方なんて知らない2」
早くも続編が10月1日に出るようです。
いなくなれ、群青 (角川コミックス・エース) いなくなれ、群青 Fragile Light of Pistol Star(1) (Gファンタジーコミックス)
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