実写映画「氷菓」を見て〜折木奉太郎は関谷純にはならない〜
※原作および映画のネタバレがあります。
実写映画「氷菓」を見に行きました。

10月半ば、米澤穂信関連の記事を書いた時はまだ見るかどうか悩んでいたのですが、結局は足を運ぶことになりましたね。
まあ好きな作品が実写化して本当の意味で成功した例はほとんどありませんし、けっこうギリギリまで見なくてもいいかなとは思っていたんですよ。テレビドラマ版「ビブリア古書店の事件手帖」や実写映画「ハルチカ」なんかは結局見ませんでしたし。
ただ、後からやっぱり見たくなっても、いきなり上映期間が短縮されていて見れないとなったら後悔しそうだなと思ったんですね。実際、映画「サクラダリセット」は「後編」をみるのにけっこう苦労しましたから。(「サクラダリセット」は「後編」でかなりがっかりしたものの、全体的には見てよかった作品だったと思っています)
で、少なくとも「ハルチカ」のような、世界観そのものの改変はないように思えたんです、今回の実写化は。ならば、映画のスタッフはこの「氷菓」という作品をどうとらえたのかという点において、原作ファンとして見るのもアリかなと。
そんな感じで、それほど期待せずに軽い気持ちで見に行ったわけなんですね。
で、どうだったかと言うと……
一言でいうと、こんな感じでしょうかw
…ごめんなさい、はぐらかすつもりはないんですけど、見終わってまず最初に浮かんだのがこの絵だったのでw
でも、すごく「怖い映画」だったと思いますよ、いい意味で。
実は〈古典部シリーズ〉中での「氷菓」って、私の中ではそれほど評価が高くなかったんですね。(ダジャレのつもりはないです)正直、読んでいて「関谷純の悲劇」の重さがピンとこなかったんですよ。
それは今もあまり変わっていません。やっぱり「愚者のエンドロール」や「クドリャフカの順番」からですね、私の中での〈古典部シリーズ〉は。
TVアニメ「氷菓」は、あの地味な原作を本当に絵として映える素晴らしい作品にしてくれたと思っているんですけど、
それでもやっぱり、「関谷純の悲劇」はどこか遠い「伝説」でしかなかった感じがします。
「氷菓」という作品は、ちゃんと関谷純の悲劇の怖さを実感できないとダメだと思うんですよ。
そうでなければ、「氷菓=アイスクリーム」wなんだダジャレじゃんwで終わりになってしまいます。
そんな話じゃないんです。「I scream」に込めた彼の“叫び”を、ちゃんと聞かなければ「氷菓」を読んだことにならないんですよ。
この映画は怖かったです。
関谷純の身に降りかかったその理不尽な「英雄譚」の恐ろしさが、我が身のように思えてきて本当に怖かった。
そういった意味で、私は初めて、この「氷菓」という話の怖さに触れたといってもいいのでしょう。
調べてみると、今回の監督である安里麻里さんって、主にホラー映画を撮っていた方なんですね。すごく納得しましたよ。
実際、ホラーぽい演出がところどころ見受けられましたからね。
「氷菓」という作品の怖さを引き出す意図を持って、この監督さんが選ばれたのなら、実に素晴らしいキャスティングだと思いますね。
キャスティングといえば、今回の配役。
千反田える役の広瀬アリスさんに対してはいろんな声がありましたけど、私はこの眼を見て納得しましたよ。
どうです、この眼力!すごいでしょ?怖いでしょ?
これだけ見れば、完全に和製ホラーのパンフですよw
(「やらなくてもいいことなら、やらない。のはずだった——。」のコピーがなんとも不気味に感じるのは私だけでしょうか……)
この映画では千反田えるの「私気になります」の際の「眼」の存在感が半端ないんです。
この眼だからこそ、ホータローの「省エネ主義」が揺らぐのに説得力が生まれるんです。
たぶん、このアリスさんの眼の怖さ(失礼!)でキャスティングされたんだと思いますね。
確かに、ちょっと「年上」さん(だから失礼だって!)に見えてしまうのは否めませんが、
でも“える”というヒロインのアンバランスさをよく演じていたと思いますよ。はっきり言って、かなり好みです!
さて、今回の映画でアニメよりよかった点があります。
それは時代背景を原作通り「2000年」としているところです。
「神山文化祭2000」の文字を見たときには感動すら覚えましたね。
アニメのように、2012年から45年前の「悲劇」を見るのと、2000年から33年前の出来事としてみる「悲劇」とでは、受ける生々しさが違うんですよ。
ホータローやえるが携帯持っていないことがあまりにファンタジーに思える2012年と、姉の供恵と手紙でやりとりしているのがギリギリ違和感がない2000年。
関谷純の英雄譚の怖さが、ホータローたちに伝説としてではなく現実のものとして伝わるのは、2000年の世界でないとダメなんです。
そう、この関谷純の悲劇は遠い昔の出来事ではないんですよ。
ホータローたちが生きる現代でも起こりうる悲劇なんです。だからこそ、怖いんです。
この映画はその怖さをしっかりと描いていました。
例えば、ホータローが推理する際、演出としてその推理映像の中にホータロー自身がたたずんでいるんですね。
最初の「部室の鍵」の推理の際でも用務員さんが鍵を閉めているその映像の中でホータローがそれを見ていたりするわけなんです。
で、後半の推理会議の場面で、33年前の学生運動で何があったのか推理する際にも、その「決起集会」の場にホータローは後ろのほうに同席しているんです。(その推理映像で決起宣言をしているのが関谷純)
そして、真実が明かされるその時、ホータローが座っていたはずのその席にいるのが、その「関谷純」なんですよ。
もうここは、震えがきましたね。
そう、関谷純とホータローの存在がダブって見えたんですよ。
33年前の「真実」は原作とかなり変えています。
実は映画では、関谷純はリーダーにさせられてもないんです。ただ、その熱気を冷めた眼で見ていた傍観者にすぎなかったんですね。
ところが、六月闘争で格技場が火事になった際に、ある女子生徒を助け出したことにより、「優しい英雄」にさせられてしまったんです。
そして、さもその運動の象徴のように祭り上げられてしまった。
どこか、ホータローが「省エネ主義」になったその根本的な理由と重なりませんか?
そう、「長い休日」(『いまさら翼といわれても』所収)で、彼が知ったのは「善意は付け込まれる」ということでした。
まさに、ホータロー自身が同じような目にあっているんです。(スケールはだいぶ違いますが)
だからこそ、関谷純が学校を追われる際に叫んだシーンで、
一瞬「ホータロー」の姿になるところがすごく大きな意味を持って心の奥底に響くんですね。
彼自身が、かつてその思いを持って「省エネ主義」になったであろうことが見ている者に伝わってくるんです。
もちろん、いくつか気になった面もあります。
特に前半は正直退屈に思えた部分は否めません。
ほぼ原作通りに進めているところが逆に映像的にすごく地味に見えて、
はっきり言って、これはヒットしないだろうなあと思ってしまいましたよw
ていうか、なんだか芝居じみている感がしたんですね。
「高校生活といったらバラ色…」とか、舞台ならともかく、現代映画の中であれをやられると、なんだか白々しく思えてしまいます。
入部勧誘の場面もアニメのイメージそのままを持ってこなくても良かったんじゃないかなあ。
それと、「それは二毛作です」とか「すこんぶ」とかはむちゃくちゃ寒く感じましたねw
アニメならともかく、生身の人間がやるとあそこまで恥ずかしい感じになるのかとw
まあ「日常の謎」というジャンル自体が、そもそも一般受けするものとは思えないので仕方ない部分もありますけどね。
予告編で「オリエント急行殺人事件」とか派手なものをやっていたので余計にそう思ってしまいましたw
やっぱりミステリは殺人が起こらないと面白くないという人も多いんだろうなあ…
でも、例えば図書室のシーンとかけっこう遊び心もあったりして楽しめましたよ。
電撃文庫がやたら充実していたり、ホータローが読んでいる文庫が「毒入りチョコレート事件」だったりw
若い俳優さんたちがどこか浮ついた演技のように見えた分、大人を演じた人たちの存在感が映画を締めていましたね。
えるの回想シーンのみに出てくる“叔父”としての関谷純役の眞島秀和さん、そして、糸魚川養子役の斉藤由貴さん。
難しい役を実に深みのある演技で見事に魅せてくれたと思います。
特に糸魚川先生は原作ともアニメとも違う微妙な人物像になっていたので、よけいにその凄みに圧倒されましたね。
また、舞台地である飛騨高山の風景の素晴らしさにも目を奪われました。これも実写ならばの良さですよね。
後半の流れは本当に素晴らしくて、よかった点を挙げていくときりがないのですが、
特に印象に残ったのはラストでのホータローがえるに伝える言葉ですね。
これはちょっと泣きそうになりますよ、マジで。
この映画スタッフがいかに原作に対してきちんとリスペクトした上で、新たな視点を提示したかがよくわかる名シーンですね。
姉の供恵との手紙が実は伏線になっていたという点からすると、まさに「日常の謎」の醍醐味といってもいいくらいです。
そう、供恵の手紙の真意はホータローからえるへと、しっかり伝わっていたのですから。
円紫さんは読み終えた手紙を丁寧にたたんだ。その動作に円紫さんの心があった。(東京創元文庫「空飛ぶ馬」251ページより引用)
“日常の謎”の草分け、北村薫氏の「空飛ぶ馬」の中の一編「赤頭巾」にはこんな一節があるのですが、
私はこの一文こそ、“日常の謎”の真髄なのだと改めて思い知らされましたよ。
「日常の謎」とは、その何気ない日常の中から「人の心」を見出すミステリなんですね。
最後に。
この映画を見て、これからの〈古典部シリーズ〉について少し思うことがありました。
(※原作『いまさら翼といわれても』の若干のネタバレがあります)
関谷純の悲劇は、けっきょく悲劇のままでした。
映画の最後では“法律上”死んだことになり、葬儀を行われることになります。
同じような思いをしたホータローは再び自分の「灰色高校生活」も悪くはないのではと思い始めます。
でも、そんな中、あの千反田えるが……、というところでこの映画は幕を下ろします。
見ようによっては、バッドエンドかと思うような感じですが、まあこれはホラー映画で培った洒落みたいなものでしょう。
というより、関谷純とホータローには大きな違いがあることをこの映画を見た人は知っているので、このラストがハッピーエンドなのだとしっかり思える形になっているんですね。
その違いとは、助けることになった相手です。
関谷純が助けた“郡山養子”はとても弱くてずるい女の子でした。他の生徒同様、「やさしい英雄」が追われるのをただ黙って見ていただけでした。
でも、ホータローが助けた“千反田える”は違います。
関谷純とはちがって、ホータローにはえるがいるからこそ、「悲劇」にはならないんじゃないかと思わせるわけですよ。
かつての文化祭の雰囲気と2000年の文化祭とで、また見事なコントラストになっているところも実にうまいなと思わせましたね。
もちろん、えるも弱い部分を持っています。
それは、原作の「いまさら翼といわれても」でもしっかり描かれていました。
「千反田家のお家事情」にただ翻弄されるだけの弱い女性。
でも、奉太郎はそんなえるを、無理矢理に蔵から引っ張り出すことはしませんでした。
あくまで彼女の気持ちに委ねたのです。
それは、奉太郎が「いまさら」という言葉に千反田えるの芯の強さを見たからだったのではないでしょうか。
今までの自分の葛藤と覚悟に嘘がつけないからこその「いまさら」。
それ故に、父の言葉に対して素直に頷けなかったえるのことを奉太郎はわかっていたのです。
今後、奉太郎は「千反田家のお家事情」という“闘争”の中に否応なしに関わることになるかもしれません。
その先に待っているのは、関谷純のような「悲劇」でしょうか?私は違うと思うんです。
なぜなら、千反田えるは“郡山養子”のように弱くはないから。
あの気になったことをそのまま放っておくことができない“怖い眼”を持っている彼女なら、そんな「悲劇」のままで終わらせるなんて決して許さないだろうから。
そんな、これからの奉太郎とえるの未来にさえ思いを馳せることができる映画でしたね。
意外なほどに、原作とも繋がっている感じがしましたよ。
アニメのファンだった人はもとより、むしろ『いまさら翼といわれても』まで読んでいる原作ファンこそ、見るべき映画だと思います。
コミックス版もアニメや映画以上に素晴らしい作品になっています。
最新11巻はアニメBDボックスの特典についていたオリジナル短編も収録!
米澤さんが「氷菓」を新人賞に応募する際に書いたネタを元にコミカライズされたものだそうで、原作ファンも一読の価値ありです!
もちろん、原作を改めて読み直すのもありかと。
実写映画「氷菓」を見に行きました。

10月半ば、米澤穂信関連の記事を書いた時はまだ見るかどうか悩んでいたのですが、結局は足を運ぶことになりましたね。
まあ好きな作品が実写化して本当の意味で成功した例はほとんどありませんし、けっこうギリギリまで見なくてもいいかなとは思っていたんですよ。テレビドラマ版「ビブリア古書店の事件手帖」や実写映画「ハルチカ」なんかは結局見ませんでしたし。
ただ、後からやっぱり見たくなっても、いきなり上映期間が短縮されていて見れないとなったら後悔しそうだなと思ったんですね。実際、映画「サクラダリセット」は「後編」をみるのにけっこう苦労しましたから。(「サクラダリセット」は「後編」でかなりがっかりしたものの、全体的には見てよかった作品だったと思っています)
で、少なくとも「ハルチカ」のような、世界観そのものの改変はないように思えたんです、今回の実写化は。ならば、映画のスタッフはこの「氷菓」という作品をどうとらえたのかという点において、原作ファンとして見るのもアリかなと。
そんな感じで、それほど期待せずに軽い気持ちで見に行ったわけなんですね。
で、どうだったかと言うと……

一言でいうと、こんな感じでしょうかw
…ごめんなさい、はぐらかすつもりはないんですけど、見終わってまず最初に浮かんだのがこの絵だったのでw
でも、すごく「怖い映画」だったと思いますよ、いい意味で。
実は〈古典部シリーズ〉中での「氷菓」って、私の中ではそれほど評価が高くなかったんですね。(ダジャレのつもりはないです)正直、読んでいて「関谷純の悲劇」の重さがピンとこなかったんですよ。
それは今もあまり変わっていません。やっぱり「愚者のエンドロール」や「クドリャフカの順番」からですね、私の中での〈古典部シリーズ〉は。
TVアニメ「氷菓」は、あの地味な原作を本当に絵として映える素晴らしい作品にしてくれたと思っているんですけど、
それでもやっぱり、「関谷純の悲劇」はどこか遠い「伝説」でしかなかった感じがします。
「氷菓」という作品は、ちゃんと関谷純の悲劇の怖さを実感できないとダメだと思うんですよ。
そうでなければ、「氷菓=アイスクリーム」wなんだダジャレじゃんwで終わりになってしまいます。
そんな話じゃないんです。「I scream」に込めた彼の“叫び”を、ちゃんと聞かなければ「氷菓」を読んだことにならないんですよ。
この映画は怖かったです。
関谷純の身に降りかかったその理不尽な「英雄譚」の恐ろしさが、我が身のように思えてきて本当に怖かった。
そういった意味で、私は初めて、この「氷菓」という話の怖さに触れたといってもいいのでしょう。
調べてみると、今回の監督である安里麻里さんって、主にホラー映画を撮っていた方なんですね。すごく納得しましたよ。
実際、ホラーぽい演出がところどころ見受けられましたからね。
「氷菓」という作品の怖さを引き出す意図を持って、この監督さんが選ばれたのなら、実に素晴らしいキャスティングだと思いますね。
キャスティングといえば、今回の配役。
千反田える役の広瀬アリスさんに対してはいろんな声がありましたけど、私はこの眼を見て納得しましたよ。

どうです、この眼力!すごいでしょ?怖いでしょ?
これだけ見れば、完全に和製ホラーのパンフですよw
(「やらなくてもいいことなら、やらない。のはずだった——。」のコピーがなんとも不気味に感じるのは私だけでしょうか……)
この映画では千反田えるの「私気になります」の際の「眼」の存在感が半端ないんです。
この眼だからこそ、ホータローの「省エネ主義」が揺らぐのに説得力が生まれるんです。
たぶん、このアリスさんの眼の怖さ(失礼!)でキャスティングされたんだと思いますね。
確かに、ちょっと「年上」さん(だから失礼だって!)に見えてしまうのは否めませんが、
でも“える”というヒロインのアンバランスさをよく演じていたと思いますよ。はっきり言って、かなり好みです!
さて、今回の映画でアニメよりよかった点があります。
それは時代背景を原作通り「2000年」としているところです。
「神山文化祭2000」の文字を見たときには感動すら覚えましたね。
アニメのように、2012年から45年前の「悲劇」を見るのと、2000年から33年前の出来事としてみる「悲劇」とでは、受ける生々しさが違うんですよ。
ホータローやえるが携帯持っていないことがあまりにファンタジーに思える2012年と、姉の供恵と手紙でやりとりしているのがギリギリ違和感がない2000年。
関谷純の英雄譚の怖さが、ホータローたちに伝説としてではなく現実のものとして伝わるのは、2000年の世界でないとダメなんです。
そう、この関谷純の悲劇は遠い昔の出来事ではないんですよ。
ホータローたちが生きる現代でも起こりうる悲劇なんです。だからこそ、怖いんです。
この映画はその怖さをしっかりと描いていました。
例えば、ホータローが推理する際、演出としてその推理映像の中にホータロー自身がたたずんでいるんですね。
最初の「部室の鍵」の推理の際でも用務員さんが鍵を閉めているその映像の中でホータローがそれを見ていたりするわけなんです。
で、後半の推理会議の場面で、33年前の学生運動で何があったのか推理する際にも、その「決起集会」の場にホータローは後ろのほうに同席しているんです。(その推理映像で決起宣言をしているのが関谷純)
そして、真実が明かされるその時、ホータローが座っていたはずのその席にいるのが、その「関谷純」なんですよ。
もうここは、震えがきましたね。
そう、関谷純とホータローの存在がダブって見えたんですよ。
33年前の「真実」は原作とかなり変えています。
実は映画では、関谷純はリーダーにさせられてもないんです。ただ、その熱気を冷めた眼で見ていた傍観者にすぎなかったんですね。
ところが、六月闘争で格技場が火事になった際に、ある女子生徒を助け出したことにより、「優しい英雄」にさせられてしまったんです。
そして、さもその運動の象徴のように祭り上げられてしまった。
どこか、ホータローが「省エネ主義」になったその根本的な理由と重なりませんか?
そう、「長い休日」(『いまさら翼といわれても』所収)で、彼が知ったのは「善意は付け込まれる」ということでした。
まさに、ホータロー自身が同じような目にあっているんです。(スケールはだいぶ違いますが)
だからこそ、関谷純が学校を追われる際に叫んだシーンで、
一瞬「ホータロー」の姿になるところがすごく大きな意味を持って心の奥底に響くんですね。
彼自身が、かつてその思いを持って「省エネ主義」になったであろうことが見ている者に伝わってくるんです。
もちろん、いくつか気になった面もあります。
特に前半は正直退屈に思えた部分は否めません。
ほぼ原作通りに進めているところが逆に映像的にすごく地味に見えて、
はっきり言って、これはヒットしないだろうなあと思ってしまいましたよw
ていうか、なんだか芝居じみている感がしたんですね。
「高校生活といったらバラ色…」とか、舞台ならともかく、現代映画の中であれをやられると、なんだか白々しく思えてしまいます。
入部勧誘の場面もアニメのイメージそのままを持ってこなくても良かったんじゃないかなあ。
それと、「それは二毛作です」とか「すこんぶ」とかはむちゃくちゃ寒く感じましたねw
アニメならともかく、生身の人間がやるとあそこまで恥ずかしい感じになるのかとw
まあ「日常の謎」というジャンル自体が、そもそも一般受けするものとは思えないので仕方ない部分もありますけどね。
予告編で「オリエント急行殺人事件」とか派手なものをやっていたので余計にそう思ってしまいましたw
やっぱりミステリは殺人が起こらないと面白くないという人も多いんだろうなあ…
でも、例えば図書室のシーンとかけっこう遊び心もあったりして楽しめましたよ。
電撃文庫がやたら充実していたり、ホータローが読んでいる文庫が「毒入りチョコレート事件」だったりw
若い俳優さんたちがどこか浮ついた演技のように見えた分、大人を演じた人たちの存在感が映画を締めていましたね。
えるの回想シーンのみに出てくる“叔父”としての関谷純役の眞島秀和さん、そして、糸魚川養子役の斉藤由貴さん。
難しい役を実に深みのある演技で見事に魅せてくれたと思います。
特に糸魚川先生は原作ともアニメとも違う微妙な人物像になっていたので、よけいにその凄みに圧倒されましたね。
また、舞台地である飛騨高山の風景の素晴らしさにも目を奪われました。これも実写ならばの良さですよね。
後半の流れは本当に素晴らしくて、よかった点を挙げていくときりがないのですが、
特に印象に残ったのはラストでのホータローがえるに伝える言葉ですね。
これはちょっと泣きそうになりますよ、マジで。
この映画スタッフがいかに原作に対してきちんとリスペクトした上で、新たな視点を提示したかがよくわかる名シーンですね。
姉の供恵との手紙が実は伏線になっていたという点からすると、まさに「日常の謎」の醍醐味といってもいいくらいです。
そう、供恵の手紙の真意はホータローからえるへと、しっかり伝わっていたのですから。
円紫さんは読み終えた手紙を丁寧にたたんだ。その動作に円紫さんの心があった。(東京創元文庫「空飛ぶ馬」251ページより引用)
“日常の謎”の草分け、北村薫氏の「空飛ぶ馬」の中の一編「赤頭巾」にはこんな一節があるのですが、
私はこの一文こそ、“日常の謎”の真髄なのだと改めて思い知らされましたよ。
「日常の謎」とは、その何気ない日常の中から「人の心」を見出すミステリなんですね。
最後に。
この映画を見て、これからの〈古典部シリーズ〉について少し思うことがありました。
(※原作『いまさら翼といわれても』の若干のネタバレがあります)
関谷純の悲劇は、けっきょく悲劇のままでした。
映画の最後では“法律上”死んだことになり、葬儀を行われることになります。
同じような思いをしたホータローは再び自分の「灰色高校生活」も悪くはないのではと思い始めます。
でも、そんな中、あの千反田えるが……、というところでこの映画は幕を下ろします。
見ようによっては、バッドエンドかと思うような感じですが、まあこれはホラー映画で培った洒落みたいなものでしょう。
というより、関谷純とホータローには大きな違いがあることをこの映画を見た人は知っているので、このラストがハッピーエンドなのだとしっかり思える形になっているんですね。
その違いとは、助けることになった相手です。
関谷純が助けた“郡山養子”はとても弱くてずるい女の子でした。他の生徒同様、「やさしい英雄」が追われるのをただ黙って見ていただけでした。
でも、ホータローが助けた“千反田える”は違います。
関谷純とはちがって、ホータローにはえるがいるからこそ、「悲劇」にはならないんじゃないかと思わせるわけですよ。
かつての文化祭の雰囲気と2000年の文化祭とで、また見事なコントラストになっているところも実にうまいなと思わせましたね。
もちろん、えるも弱い部分を持っています。
それは、原作の「いまさら翼といわれても」でもしっかり描かれていました。
「千反田家のお家事情」にただ翻弄されるだけの弱い女性。
でも、奉太郎はそんなえるを、無理矢理に蔵から引っ張り出すことはしませんでした。
あくまで彼女の気持ちに委ねたのです。
それは、奉太郎が「いまさら」という言葉に千反田えるの芯の強さを見たからだったのではないでしょうか。
今までの自分の葛藤と覚悟に嘘がつけないからこその「いまさら」。
それ故に、父の言葉に対して素直に頷けなかったえるのことを奉太郎はわかっていたのです。
今後、奉太郎は「千反田家のお家事情」という“闘争”の中に否応なしに関わることになるかもしれません。
その先に待っているのは、関谷純のような「悲劇」でしょうか?私は違うと思うんです。
なぜなら、千反田えるは“郡山養子”のように弱くはないから。
あの気になったことをそのまま放っておくことができない“怖い眼”を持っている彼女なら、そんな「悲劇」のままで終わらせるなんて決して許さないだろうから。
そんな、これからの奉太郎とえるの未来にさえ思いを馳せることができる映画でしたね。
意外なほどに、原作とも繋がっている感じがしましたよ。
アニメのファンだった人はもとより、むしろ『いまさら翼といわれても』まで読んでいる原作ファンこそ、見るべき映画だと思います。
コミックス版もアニメや映画以上に素晴らしい作品になっています。
最新11巻はアニメBDボックスの特典についていたオリジナル短編も収録!
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