私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!喪115(後編)~本当の意味で「卒業(ハッピーエンド)」を迎えるために~
6月1日に「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」が喪115(後編)に更新されました。
今回の話はまさにわたモテ史上最大の事件と言ってよいでしょう。
今までで最も大きな転換期だった、あの喪79「モテないし自由行動する」と比べても、その衝撃度は遥かに大きいのではないでしょうか。
いままで、こんなわたモテは見たことがありませんでした。
ただ、そこには確かな意志がありました。
最初から最後まで、一貫してその意志に基づいて描かれています。
今回の話を読んで、ようやく「続き物」にした意味がわかりましたよ。
なるほど、これは確かに「前編・後編」という構成でなければ成り立たない話ですね。
今回のナンバリングもそのことを強調するかのように、前回同様「喪115」となっています。
あえて喪116としなかったところに、今回の並々ならぬ決意が感じられますね。
正直、谷川さんがわたモテというマンガに対してここまで真摯な姿勢を貫いたことに驚きを禁じ得ません。
これはよほどの「覚悟」がなければ決して描けない話ですよ。ある意味、大きなリスクが伴いますからね。
イチファンとして、それなりにどういう漫画家か理解していたつもりでしたが、
まだまだ私は谷川ニコという人を見くびっていたようです。
というわけで、今回は前回の続き「モテないし二年目の卒業式(後編)」になります。
まずは、ひとつひとつ見てまいりましょう。
まさに前回からの続き、今江さんの答辞の言葉から話は始まります。
内容自体はよくある一般的なものですが、いくつか心に残る言い回しがありましたね。
思い出「たち」は
あえて、思い出を複数形にしているところが印象的です。
ただの常套句ではない、何かを慈しむ気持ちがそこには隠されているような気がしますね。
私達が三年間で「手に入れた」かけがえのないもの
この言い回しにも今江さんの気持ちが込められているように思えます。
なんというか、「実感」があるからこその言葉に聞こえるんです。
今江さんの言葉に真剣な眼差しで耳を傾けているもこっち、そしてネモ。
そんな後輩に対して、果たしてどんな言葉を送るのでしょうか。
そんな私達よりも「もっと多くの」思い出を手に入れて下さい
これは単に、自分たちを超えていけ、ということではありません。
私達とはまた違う、あなた達だけの思い出たちがあるんだよ、ということなのです。
ただ、そんな言い方では心に残らないでしょう。それはよくある使い古された言葉だからです。
だからこそ今江さんはあえて「もっと多くの」という強い言葉で、後輩たちの心に爪跡を残そうとしたのだと思います。
それは次の言葉からもうかがえます。
それがどんなものでもかけがえのないものになるはず
数の問題と「かけがえのなさ」に相関性はないはずでしょう。
つまり、はじめから今江さんは思い出の多さを言っていたわけではなかったんですね。
そんな今江さんの気持ちがわかってしまったのか、もこっちの今にも泣きそうな表情にこちらまで胸が締め付けられそうになります。
もうそろそろ終わりか
もこっちのこの言葉には少しドキっとしてしまいますね。
こんなにシリアスな顔をしたもこっちもいままでなかったような気がします。
1ページまるまる今江さんの答辞という構成にも驚かされましたね。
おちゃらけた空気も一切なく、その場にいる誰もが今江さんの話に真剣に耳を傾けている様子がまた印象的で、
読者側にもその厳格な雰囲気が伝わってくるようです。
この場面も印象的でしたね。
なぜもこっちは、去年は歌わなかったのに今年は真面目に歌おうとしたのでしょう?
人の為に歌うのはこれで最後だしな
そうなんですよね。
来年歌うであろう「いざーさらーばー」は、“自分”に向けられるものなんです。
誰かを惜しんで歌えるのは今回限り。
そのことにもこっちは気づいていたのです。
そして、どうしても、その誰かの為に歌いたかったのです。
コサージュのときは偶然でしたが、今度は自らの意志で挨拶をしに行こうとするもこっち。
このときを逃せばもう二度と会えないかもしれないのですから当然といえば当然ですが、やっぱりいじらしい。
1年時の卒業式での言葉「来年は…どんな卒業式になるんだろ…」がふと脳裏に浮かんで、思わず泣きそうになってしまいますね。
あの頃と違って、今では「帰る?」と声をかけてくれる存在がいるのですからなおさらです。
そんなわけで、今江さんに最後の挨拶をしに行くもこっち。
でも、やはり気遅れしてしまうのか、そばに行くのを躊躇しているようです。
気遅れというより、むしろ「遠慮」なのでしょうか、他の人たちを気にしているようですね。
もこっちはこの後、
私なんて少し話したくらいで別に特別な関係でもないしな…
こんなことを思ってしまいます。
それは言い換えると、
彼女の「思い出」たちの中のひとつに、自分は入っているのだろうか。
私にとって今江さんは「かけがえのないもの」だったけど、彼女にとって自分は「かけがえのないもの」の中に入っていないのかもしれない。
そんな寂しい気持ちだったのかもしれません。
何かを振り切るかのように、目線をそらしてしまうもこっち。
そんなもこっちの諦めにも似た気持ちに、ゆりちゃんたちはまだ気づいていないようです。
なんだかもこっちらしくない言葉ですね。
まるで自分に暗示をかけているかのようです。(目が虚ろなところに注目)
本当は他の人のことなんてどうでもいいはずなんですよね。
ひとこと挨拶がしたい、その自分の気持ちこそが大事なんですから。
だけど、今江さんにとって、自分が「思い出」たちのひとつでないなら、あそこにいる資格もない。
そんなことを考えてしまう自分を認めたくないからこそ、こんな柄にもないきれいごとでごまかそうとしてしまうわけです。
さて、そんなもこっちの背後に忍び寄る影が……
何かを訴えかけているかのような吉田さんの表情。
彼女は大事なことを口にしないために誤解されやすいですが、
この場合にむしろ言葉はいらないのでしょう。まさに目は口ほどにものを言う、です。
むしろ、そんな彼女だからこそ、
もこっちの「強がり」を真に受けることなく、その裏にある本当の思いに気づけたのだと思いますね。
そして、そんなごまかしを決して見逃せないのが吉田さんという人間なのです。
本当は吉田さんも、今江さんにひとこと挨拶をしたかったのでしょう。
もこっちの背中を押すことと同時に、二人揃って今江さんの前に現れたかった。
それは、喪98「モテないし冬の雨」での、今江さんに対する吉田さんなりの返答でもあったのではないでしょうか。
だからこそ、今江さんも安心して「元気でね」と答えることができたのでしょう。
彼女にも吉田さんの気持ちは伝わったのです。
それにしても吉田さん、ちょっとカッコよすぎですね。
これじゃあまるで、古い西部劇のヒーローみたいな振る舞いじゃないですか。
キツネにネクタイが覆い被さっているところに吉田さんの不器用な優しさを見ることができます。
首根っこを掴むといいますが、マフラーとコートの下に隠れているネクタイをわざわざ引っ張り出すなんて、普通はしませんよね。
要するに、吉田さんにはこのキツネマフラーを力づくで掴むことができなかったんです。
そんなわかりづらい優しさだからこそ、
こうしてもこっちと今江さんを引き合わせることができたのですね。
今江さんの隣にいる子は、1年の文化祭で今江さんの前に着ぐるみに入っていた子ですね。(喪21「モテないし文化祭に参加する」(3巻所収)参照)
それにしても、この「オッケー」。
まるですべてお見通しかのような、なんとも気持ちの良い返しですよね。
きっと彼女にもこの一連の絡みの意味がわかっているのでしょう。
そう、彼女にとっても、あの着ぐるみの出来事は「かけがえのない」思い出たちのひとつだったに違いありません。
第一声の「あっ」とか「その」が付いてしまうところが、なんとももこっちらしいですが、
でもこういうシチュエーションの場合、なかなか通り一遍の言葉しか出てきませんよね。
さりげなくネクタイをしまう仕草が、彼女の所在無さをより印象づけます。
次の言葉が見つからないもこっち。
せっかく場を用意してもらったのに、
何も気の利いたことが言えない自分に焦る気持ちと、今江さんに対する申し訳ない気持ち。
そんないろんな思いが混じってどうにも立ち行かなくなってしまっているんですね。
いったいこの場合、どんな労いや感謝の言葉がふさわしいのでしょうか?
そんな気まずい中での、突然の自己紹介。
正直、自分も読んでいて意表を突かれましたが、
これにはいったいどんな思いがあるのでしょうね?
そうか…そうですよね。
私自身、この時初めて気づきましたが、もう出会って1年半経つのに、お互いきちんと名乗っていなかったのですね。
く 黒木智子です
どんな言葉よりまず、このセリフこそが今江さんに届けるべき言葉だったのです。
なんだか、ここで初めて二人が出会ったかのような錯覚さえ感じてしまいました。
本当に素晴らしいシーンだと心から思います。
もこっちが今江さんにひとこと挨拶がしたかったように、今江さんも直接名乗りたかったのでしょうね。
思い出のひとつどころか、「心残り」と言えるくらい、彼女にとってもこっちとの思い出は「かけがえのないもの」だったのです。
記念写真を撮っている人たちをバックに、自分に何かできることはないかと聞くもこっちがなんだか切ないですね。
考えてみれば、もこっちの口からこんなセリフが出てくること自体がなんだか「事件」のような気がします。
前編で「私をかまってくれた人が一人いなくなるし」とぼやいていたもこっちが、今ここでこのセリフを言えたことに、
いちファンとして震えたくなるほどの感動を覚えました。(同時に一抹の寂しさも感じましたが)
お互い、直接きちんと名乗った後だからこそ、こんな気持ちになれたのではないでしょうか。
もう一回
ここでこのフレーズを出してくるのですね。
文化祭閉会間際の、あの着ぐるみ。
あの秘密をここで、もこっちにそれとなく伝える意味。
そこにはどんな思いとメッセージが込められているのか。
……すみません、私にはまだうまく言葉にできません。
できませんが、これから何度となく読み直しながら、ずっと考えて続けていくことになりそうです。
抱きしめられているもこっちのポーズがあのときとほぼ同じ。
どうしても文化祭のときとイメージがダブりますね。
あのぬくもりに、あの風船に、どれだけもこっちが救われたか。
きっと、ただ抱きしめるだけで想いは伝わるのです。
この後、今江さんは
「ありがとう 会いに来てくれて」
「あの素直じゃない子にもよろしくね」
とだけ言い残します。
言葉にしなくても伝わるものを知っているからこそ、
彼女は吉田さんのことを「あの素直じゃない子」と呼んだのですね。
そして、それだけでもこっちにも伝わることを彼女は知っていたのです。
いつもの3人組でいつもの帰り道。
でも、もこっちの顔色は今ひとつすぐれません。
何か考え事をしているのでしょうか。
そして、真子の問いかけで何かに気づき、思わず足を止めてしまうもこっち。
抱きしめるだけで想いは伝わる。
まさにこういうことなのでしょう。
今回で一番心に残った言葉です。
「いつも」気づくのが遅い
今回のことに限らず、自分はいつも気づくのが遅いんだ、ということです。
要するに、他にも気づくのが遅かったことがいくつもあったんですよね。
それがなんだったのかはわかりませんが、
そのことに気付いたとき、彼女から「ズビ」という音が聞こえてくるわけです。
やはり、「前編」の「花粉症」は伏線でした。
ティッシュを差し出す真子ですが、ここでもこっちに必要なのは果たしてティッシュだったのでしょうか?
「ズズ」という音だけで、もこっちの表情を見せないところがなんとも憎い演出です。
ここはやっぱり、もこっちのそんな顔は見たくないですよね。
人によっては、あまりにベタ過ぎるというかもしれません。
でも私は、わたモテがわたモテであるために、ここは必要な演出だったのだと思います。
ティッシュを差し出す真子を制止するかのようなゆりちゃんの仕草。
きっと、彼女には「ズズ」の本当の意味がわかったのでしょう。
いまのもこっちに必要なのはティッシュなんかじゃない。ただ、しばらく、そのままにしてあげることなんだということに。
「最初から最後まで与えられてばかりか…」
というモノローグに胸が締め付けられますね。
まさにこの構図が、そのままそれを象徴しているのですから。
前編でもこっちは、
そこそこ人から構われ、それなりに高校生活もそんなに悪くないかも……と思っている今だからこそ、
卒業したいと思っていました。
私もその気持ちはわかるというか、いい時で終わらせるのも「ハッピーエンド」の形なのかもという気もしていました。
でも、もこっちはここではっきりと、
今 卒業できる資格はどう考えてもない
と言い切りました。
そう、次にくるマイナスを恐れて、今あるプラスのまま、それをさも「ハッピーエンド」かのようにごまかすのは間違いだということに気付いたのです。
本当の意味で「卒業」できるためには、今ここで卒業するわけにはいかない。
私はこれを、谷川ニコの決意表明のようにも感じました。
ひょっとしたら、今回は賛否両論分かれるかもしれません。
こんなのは「わたモテ」ではない、という人もいるのではないでしょうか。
今回やっていることは、確かにある種の禁じ手ともいえることですから。
そう、ここまで感想記事を読んでいただいたなら、もうお分かりかと思いますが、
今回は「ギャグ」が一つもありません。
つまり、「ギャグマンガ」として成り立っていないんです。
今江さん卒業回はギャグオンリーには収まらないだろうとは誰もが思っていたことでしょうけど、
まさかこんな形になるとは思いもしなかったのではないでしょうか。
これまで、どんなに叙情的な内容だろうと、必ずどこかに「ギャグ」は入れてきました。
なぜなら、わたモテというマンガは「ギャグマンガ」だからです。
「青春」の痛さや切なさを描きつつもそれを笑いに転化することが、わたモテの本質だったはずです。
その矜持をあえて捨て去ってまで、なぜこんな「感動マンガ」を描かなければならなかったのでしょう。
そこで、今回の「前編・後編」というスタイルです。
本来なら、喪116とするところを、喪115のままにしているところからしてもその意図は明白です。
つまり、前回と今回は繋がっている話で、本来なら分けるべきものではないということなんですね。
では、なぜこんな形で分けなければならなかったのか。
前編を読んだ時点では、その意図がわかりませんでしたが、
今回の話を読んでようやくわかりました。
つまり、本来、今江さん卒業の話は「ギャグ」をまったく入れずに描きたかったんですよ。
そうしなければ、もこっちの本当の思いは描くことができないことを谷川さんはわかっていたのです。
そこをごまかしたら、それこそ、「卒業する資格はない」と。
でも、1話丸ごとシリアスに描くことは、ある意味わたモテとしての自己否定でもあります。
だからこそ、あえてギャグを入れた「前編」と、ギャグを一切入れない「後編」とで、“喪115”としたのです。
「ギャグマンガ」を続けるために、一度「ギャグマンガ」でないものを描く。
こんなリスクを犯そうとするマンガ家が他にどれほどいることでしょう?
その並々ならぬ業の深さに、私はただ頭を垂れるのみです。
そんな凄まじい決意の結晶に敬意を込めて、今回は意図的に「w」を使いませんでした。
そして、「一番笑ったシーン」はもとより、「個人的ベストシーン」も「ベストもこっち」も選びませんでした。
言うなれば、今回の話を構成するすべてのものがベストシーンだったのかもしれません。
今思うと、コミックス11巻ラストの喪109「モテないし 雪の日の学校」は今回への布石だったのかもしれませんね。
今回の話はまさにわたモテ史上最大の事件と言ってよいでしょう。
今までで最も大きな転換期だった、あの喪79「モテないし自由行動する」と比べても、その衝撃度は遥かに大きいのではないでしょうか。
いままで、こんなわたモテは見たことがありませんでした。
ただ、そこには確かな意志がありました。
最初から最後まで、一貫してその意志に基づいて描かれています。
今回の話を読んで、ようやく「続き物」にした意味がわかりましたよ。
なるほど、これは確かに「前編・後編」という構成でなければ成り立たない話ですね。
今回のナンバリングもそのことを強調するかのように、前回同様「喪115」となっています。
あえて喪116としなかったところに、今回の並々ならぬ決意が感じられますね。
正直、谷川さんがわたモテというマンガに対してここまで真摯な姿勢を貫いたことに驚きを禁じ得ません。
これはよほどの「覚悟」がなければ決して描けない話ですよ。ある意味、大きなリスクが伴いますからね。
イチファンとして、それなりにどういう漫画家か理解していたつもりでしたが、
まだまだ私は谷川ニコという人を見くびっていたようです。
というわけで、今回は前回の続き「モテないし二年目の卒業式(後編)」になります。
まずは、ひとつひとつ見てまいりましょう。

まさに前回からの続き、今江さんの答辞の言葉から話は始まります。
内容自体はよくある一般的なものですが、いくつか心に残る言い回しがありましたね。
思い出「たち」は
あえて、思い出を複数形にしているところが印象的です。
ただの常套句ではない、何かを慈しむ気持ちがそこには隠されているような気がしますね。
私達が三年間で「手に入れた」かけがえのないもの
この言い回しにも今江さんの気持ちが込められているように思えます。
なんというか、「実感」があるからこその言葉に聞こえるんです。

今江さんの言葉に真剣な眼差しで耳を傾けているもこっち、そしてネモ。
そんな後輩に対して、果たしてどんな言葉を送るのでしょうか。

そんな私達よりも「もっと多くの」思い出を手に入れて下さい
これは単に、自分たちを超えていけ、ということではありません。
私達とはまた違う、あなた達だけの思い出たちがあるんだよ、ということなのです。
ただ、そんな言い方では心に残らないでしょう。それはよくある使い古された言葉だからです。
だからこそ今江さんはあえて「もっと多くの」という強い言葉で、後輩たちの心に爪跡を残そうとしたのだと思います。
それは次の言葉からもうかがえます。
それがどんなものでもかけがえのないものになるはず
数の問題と「かけがえのなさ」に相関性はないはずでしょう。
つまり、はじめから今江さんは思い出の多さを言っていたわけではなかったんですね。
そんな今江さんの気持ちがわかってしまったのか、もこっちの今にも泣きそうな表情にこちらまで胸が締め付けられそうになります。

もうそろそろ終わりか
もこっちのこの言葉には少しドキっとしてしまいますね。
こんなにシリアスな顔をしたもこっちもいままでなかったような気がします。
1ページまるまる今江さんの答辞という構成にも驚かされましたね。
おちゃらけた空気も一切なく、その場にいる誰もが今江さんの話に真剣に耳を傾けている様子がまた印象的で、
読者側にもその厳格な雰囲気が伝わってくるようです。

この場面も印象的でしたね。
なぜもこっちは、去年は歌わなかったのに今年は真面目に歌おうとしたのでしょう?
人の為に歌うのはこれで最後だしな
そうなんですよね。
来年歌うであろう「いざーさらーばー」は、“自分”に向けられるものなんです。
誰かを惜しんで歌えるのは今回限り。
そのことにもこっちは気づいていたのです。
そして、どうしても、その誰かの為に歌いたかったのです。

コサージュのときは偶然でしたが、今度は自らの意志で挨拶をしに行こうとするもこっち。
このときを逃せばもう二度と会えないかもしれないのですから当然といえば当然ですが、やっぱりいじらしい。
1年時の卒業式での言葉「来年は…どんな卒業式になるんだろ…」がふと脳裏に浮かんで、思わず泣きそうになってしまいますね。
あの頃と違って、今では「帰る?」と声をかけてくれる存在がいるのですからなおさらです。

そんなわけで、今江さんに最後の挨拶をしに行くもこっち。
でも、やはり気遅れしてしまうのか、そばに行くのを躊躇しているようです。

気遅れというより、むしろ「遠慮」なのでしょうか、他の人たちを気にしているようですね。
もこっちはこの後、
私なんて少し話したくらいで別に特別な関係でもないしな…
こんなことを思ってしまいます。
それは言い換えると、
彼女の「思い出」たちの中のひとつに、自分は入っているのだろうか。
私にとって今江さんは「かけがえのないもの」だったけど、彼女にとって自分は「かけがえのないもの」の中に入っていないのかもしれない。
そんな寂しい気持ちだったのかもしれません。

何かを振り切るかのように、目線をそらしてしまうもこっち。
そんなもこっちの諦めにも似た気持ちに、ゆりちゃんたちはまだ気づいていないようです。

なんだかもこっちらしくない言葉ですね。
まるで自分に暗示をかけているかのようです。(目が虚ろなところに注目)
本当は他の人のことなんてどうでもいいはずなんですよね。
ひとこと挨拶がしたい、その自分の気持ちこそが大事なんですから。
だけど、今江さんにとって、自分が「思い出」たちのひとつでないなら、あそこにいる資格もない。
そんなことを考えてしまう自分を認めたくないからこそ、こんな柄にもないきれいごとでごまかそうとしてしまうわけです。
さて、そんなもこっちの背後に忍び寄る影が……

何かを訴えかけているかのような吉田さんの表情。
彼女は大事なことを口にしないために誤解されやすいですが、
この場合にむしろ言葉はいらないのでしょう。まさに目は口ほどにものを言う、です。
むしろ、そんな彼女だからこそ、
もこっちの「強がり」を真に受けることなく、その裏にある本当の思いに気づけたのだと思いますね。
そして、そんなごまかしを決して見逃せないのが吉田さんという人間なのです。

本当は吉田さんも、今江さんにひとこと挨拶をしたかったのでしょう。
もこっちの背中を押すことと同時に、二人揃って今江さんの前に現れたかった。
それは、喪98「モテないし冬の雨」での、今江さんに対する吉田さんなりの返答でもあったのではないでしょうか。

だからこそ、今江さんも安心して「元気でね」と答えることができたのでしょう。
彼女にも吉田さんの気持ちは伝わったのです。
それにしても吉田さん、ちょっとカッコよすぎですね。
これじゃあまるで、古い西部劇のヒーローみたいな振る舞いじゃないですか。

キツネにネクタイが覆い被さっているところに吉田さんの不器用な優しさを見ることができます。
首根っこを掴むといいますが、マフラーとコートの下に隠れているネクタイをわざわざ引っ張り出すなんて、普通はしませんよね。
要するに、吉田さんにはこのキツネマフラーを力づくで掴むことができなかったんです。
そんなわかりづらい優しさだからこそ、
こうしてもこっちと今江さんを引き合わせることができたのですね。

今江さんの隣にいる子は、1年の文化祭で今江さんの前に着ぐるみに入っていた子ですね。(喪21「モテないし文化祭に参加する」(3巻所収)参照)
それにしても、この「オッケー」。
まるですべてお見通しかのような、なんとも気持ちの良い返しですよね。
きっと彼女にもこの一連の絡みの意味がわかっているのでしょう。
そう、彼女にとっても、あの着ぐるみの出来事は「かけがえのない」思い出たちのひとつだったに違いありません。

第一声の「あっ」とか「その」が付いてしまうところが、なんとももこっちらしいですが、
でもこういうシチュエーションの場合、なかなか通り一遍の言葉しか出てきませんよね。
さりげなくネクタイをしまう仕草が、彼女の所在無さをより印象づけます。

次の言葉が見つからないもこっち。
せっかく場を用意してもらったのに、
何も気の利いたことが言えない自分に焦る気持ちと、今江さんに対する申し訳ない気持ち。
そんないろんな思いが混じってどうにも立ち行かなくなってしまっているんですね。
いったいこの場合、どんな労いや感謝の言葉がふさわしいのでしょうか?

そんな気まずい中での、突然の自己紹介。
正直、自分も読んでいて意表を突かれましたが、
これにはいったいどんな思いがあるのでしょうね?

そうか…そうですよね。
私自身、この時初めて気づきましたが、もう出会って1年半経つのに、お互いきちんと名乗っていなかったのですね。
く 黒木智子です
どんな言葉よりまず、このセリフこそが今江さんに届けるべき言葉だったのです。
なんだか、ここで初めて二人が出会ったかのような錯覚さえ感じてしまいました。
本当に素晴らしいシーンだと心から思います。

もこっちが今江さんにひとこと挨拶がしたかったように、今江さんも直接名乗りたかったのでしょうね。
思い出のひとつどころか、「心残り」と言えるくらい、彼女にとってもこっちとの思い出は「かけがえのないもの」だったのです。

記念写真を撮っている人たちをバックに、自分に何かできることはないかと聞くもこっちがなんだか切ないですね。
考えてみれば、もこっちの口からこんなセリフが出てくること自体がなんだか「事件」のような気がします。

前編で「私をかまってくれた人が一人いなくなるし」とぼやいていたもこっちが、今ここでこのセリフを言えたことに、
いちファンとして震えたくなるほどの感動を覚えました。(同時に一抹の寂しさも感じましたが)
お互い、直接きちんと名乗った後だからこそ、こんな気持ちになれたのではないでしょうか。

もう一回
ここでこのフレーズを出してくるのですね。
文化祭閉会間際の、あの着ぐるみ。
あの秘密をここで、もこっちにそれとなく伝える意味。
そこにはどんな思いとメッセージが込められているのか。
……すみません、私にはまだうまく言葉にできません。
できませんが、これから何度となく読み直しながら、ずっと考えて続けていくことになりそうです。

抱きしめられているもこっちのポーズがあのときとほぼ同じ。
どうしても文化祭のときとイメージがダブりますね。
あのぬくもりに、あの風船に、どれだけもこっちが救われたか。
きっと、ただ抱きしめるだけで想いは伝わるのです。
この後、今江さんは
「ありがとう 会いに来てくれて」
「あの素直じゃない子にもよろしくね」
とだけ言い残します。
言葉にしなくても伝わるものを知っているからこそ、
彼女は吉田さんのことを「あの素直じゃない子」と呼んだのですね。
そして、それだけでもこっちにも伝わることを彼女は知っていたのです。

いつもの3人組でいつもの帰り道。
でも、もこっちの顔色は今ひとつすぐれません。
何か考え事をしているのでしょうか。
そして、真子の問いかけで何かに気づき、思わず足を止めてしまうもこっち。

抱きしめるだけで想いは伝わる。
まさにこういうことなのでしょう。

今回で一番心に残った言葉です。
「いつも」気づくのが遅い
今回のことに限らず、自分はいつも気づくのが遅いんだ、ということです。
要するに、他にも気づくのが遅かったことがいくつもあったんですよね。
それがなんだったのかはわかりませんが、
そのことに気付いたとき、彼女から「ズビ」という音が聞こえてくるわけです。

やはり、「前編」の「花粉症」は伏線でした。
ティッシュを差し出す真子ですが、ここでもこっちに必要なのは果たしてティッシュだったのでしょうか?
「ズズ」という音だけで、もこっちの表情を見せないところがなんとも憎い演出です。
ここはやっぱり、もこっちのそんな顔は見たくないですよね。
人によっては、あまりにベタ過ぎるというかもしれません。
でも私は、わたモテがわたモテであるために、ここは必要な演出だったのだと思います。

ティッシュを差し出す真子を制止するかのようなゆりちゃんの仕草。
きっと、彼女には「ズズ」の本当の意味がわかったのでしょう。
いまのもこっちに必要なのはティッシュなんかじゃない。ただ、しばらく、そのままにしてあげることなんだということに。
「最初から最後まで与えられてばかりか…」
というモノローグに胸が締め付けられますね。
まさにこの構図が、そのままそれを象徴しているのですから。
前編でもこっちは、
そこそこ人から構われ、それなりに高校生活もそんなに悪くないかも……と思っている今だからこそ、
卒業したいと思っていました。
私もその気持ちはわかるというか、いい時で終わらせるのも「ハッピーエンド」の形なのかもという気もしていました。
でも、もこっちはここではっきりと、
今 卒業できる資格はどう考えてもない
と言い切りました。
そう、次にくるマイナスを恐れて、今あるプラスのまま、それをさも「ハッピーエンド」かのようにごまかすのは間違いだということに気付いたのです。
本当の意味で「卒業」できるためには、今ここで卒業するわけにはいかない。
私はこれを、谷川ニコの決意表明のようにも感じました。
ひょっとしたら、今回は賛否両論分かれるかもしれません。
こんなのは「わたモテ」ではない、という人もいるのではないでしょうか。
今回やっていることは、確かにある種の禁じ手ともいえることですから。
そう、ここまで感想記事を読んでいただいたなら、もうお分かりかと思いますが、
今回は「ギャグ」が一つもありません。
つまり、「ギャグマンガ」として成り立っていないんです。
今江さん卒業回はギャグオンリーには収まらないだろうとは誰もが思っていたことでしょうけど、
まさかこんな形になるとは思いもしなかったのではないでしょうか。
これまで、どんなに叙情的な内容だろうと、必ずどこかに「ギャグ」は入れてきました。
なぜなら、わたモテというマンガは「ギャグマンガ」だからです。
「青春」の痛さや切なさを描きつつもそれを笑いに転化することが、わたモテの本質だったはずです。
その矜持をあえて捨て去ってまで、なぜこんな「感動マンガ」を描かなければならなかったのでしょう。
そこで、今回の「前編・後編」というスタイルです。
本来なら、喪116とするところを、喪115のままにしているところからしてもその意図は明白です。
つまり、前回と今回は繋がっている話で、本来なら分けるべきものではないということなんですね。
では、なぜこんな形で分けなければならなかったのか。
前編を読んだ時点では、その意図がわかりませんでしたが、
今回の話を読んでようやくわかりました。
つまり、本来、今江さん卒業の話は「ギャグ」をまったく入れずに描きたかったんですよ。
そうしなければ、もこっちの本当の思いは描くことができないことを谷川さんはわかっていたのです。
そこをごまかしたら、それこそ、「卒業する資格はない」と。
でも、1話丸ごとシリアスに描くことは、ある意味わたモテとしての自己否定でもあります。
だからこそ、あえてギャグを入れた「前編」と、ギャグを一切入れない「後編」とで、“喪115”としたのです。
「ギャグマンガ」を続けるために、一度「ギャグマンガ」でないものを描く。
こんなリスクを犯そうとするマンガ家が他にどれほどいることでしょう?
その並々ならぬ業の深さに、私はただ頭を垂れるのみです。
そんな凄まじい決意の結晶に敬意を込めて、今回は意図的に「w」を使いませんでした。
そして、「一番笑ったシーン」はもとより、「個人的ベストシーン」も「ベストもこっち」も選びませんでした。
言うなれば、今回の話を構成するすべてのものがベストシーンだったのかもしれません。
今思うと、コミックス11巻ラストの喪109「モテないし 雪の日の学校」は今回への布石だったのかもしれませんね。
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