「哲学」的ではなく、単純で純粋な物語~実写「サクラダリセット」とアニメ「サクラダリセット」を見て~
「サクラダリセット」の実写映画の前編と、TVアニメの第2話までを見ました。
今回はそれらを踏まえた上で、原作ファンの立場として感じた事を綴っていきたいと思います。
なお、私は基本的に映画もアニメもあまり詳しくないので、「映画」としてどうとか「アニメ」としてどうだとかを評価するつもりはありません。そういった素養や知識もありませんし、その資格もないと思っていますので。
あくまで「サクラダリセット」という作品としてどうなのかということのみを語っていきます。
あ、あと一つ、おわびを。
前に『「サクラダリセット」を楽しむための5つのこと』という記事を書きましたが、
ごめんなさい、映画やアニメを見る限り、あの5つを押さえれば大丈夫とはさすがに言えない感じですね。初見の人にはやはり原作の世界をまず知っていないとハードルが高いかなというのが率直な感想です。
さて、どちらもまだ完結はしていないので、あくまで暫定的な評価ということをまずはことわっておきます。
その上であえて言いますが、実写とアニメどちらに軍配をあげるかとすれば、私は迷わず「実写」のほうを選びます。もちろん、どちらも問題点はあるのですが、現時点では「実写」のほうが「サクラダリセット」の世界を表現できていたと判断しますね。
原作への「忠実度」としては、アニメのほうが圧倒的に高いです。それは間違いありません。
それに対して「実写」は、キャラクター設定も含めてかなりアレンジしていると言えるでしょう。
しかしそれでも、「サクラダリセット」度は実写のほうが上です。
これは個人的にも面白い発見でした。
よく原作ファンは、他媒体への展開に対して、「監督の独自の解釈とかいらないんだ原作をそのまま動かしてくれればいいんだよ」、と不満を口にします。
どちらかといえば私もそういったタイプだったのですが、今回の「サクラダリセット」で少し考えを改めました。
ただ「忠実」に描けばその世界が忠実に再現されるわけじゃないんですね。
(これは「正しいことはどこか正しくない」と通じるところがあるような気もします)
つまり、小説で使われている“ファイル形式”を、そのまま「アニメ」という“アプリ”で開こうとしてもエラーが出てしまうんですよ。
やはり、そこには「アニメ」に対応している形式に変換する作業が必要なんです。
たぶん、アニメのスタッフは、「原作はこんなに面白いんだから、そのままの素材をそのまま出せばきっと伝わるはずだ」といった感じで、プラットフォームの違いをあまりに軽く考え過ぎていたのではないでしょうか。
●「視点描写」こそが問題
「サクラダリセット」という作品は文体に少し特徴があります。
作者である河野さん自身は、「三人称視点ではあるものの一人称視点的に描かれる作品」とおっしゃっていますが、まあ一般的には「三人称一元視点」といわれるスタイルだと思います。
でもそれだけじゃなくって、「神視点」と「第三者視点」が混在している“主観”視点というか、ところどころ視点があやふやなところがあるんですよ。
さらには、それに加えて、場面場面で一人称視点(語り部)が入れ替わるんです。だから下手すると、読み手を混乱させるだけのものになりかねない構造なんです。
ところが、表現そのものは非常に感情移入しやすい情感豊かな文章になっていて、読者が迷わず世界に入っていける工夫がなされているんですよ。それがまた、独特な味わいとなって“透明度の高い文章”といわれる所以になるわけですね。
で、この一見するとややこしい文体こそが「サクラダリセット」の根幹なんです。
「あらゆる悲しみ」と「自分の悲しみ」をも区別することができない春崎美空というキャラクターは、主観も客観も混じり合った文章だからこそ描けるんです。
(実はこの視点が混じり合う文章というのは、「スワンプマン」や「相馬菫の死」にも大きく繋がってくる重要なポイントなのですが、これは下手すると大きなネタバレにもなるので割愛)
なぜ春崎美空が、「悲しんでいるのは誰」という問いかけに対して「わからない」と答えたのか、アニメを見ただけではなかなかわからないでしょう。(私も原作を読んでなかったらきっと理解できなかったと思います)
「アニメ」であの主観も客観も混じった視点を表現するのは至難の技です。だからこそ、キャラクターの会話や行動をそのままトレースするのではなく、“翻訳”が必要になってくるわけです。
今まで何度か映像化に動いたものの、「特殊能力が入り乱れるルールの複雑さ」や「中盤の大どんでん返し」で行き詰まって断念してきたという話ですが、どうも根本的に間違っているような気がしてきました。
そんなことは、枝葉末節な部分なのではないでしょうか。
本当に「映像化困難」なのは、この「視点描写」の問題だったのではと、今回のアニメを見て感じましたね。
●「サクラダリセット」は「理」の話ではない
もうひとつ、気になったのは「時系列」の問題。
原作では(実写映画も)高校1年の夏から始まるわけですが、アニメでは相馬菫がいた中学2年の春から物語が始まる構成になっています。
原作者の河野さんは「理にかなっている」とおっしゃったそうですが、「理」にかなっているから正しいとは限りません。
実際、「サクラダリセット」は「理」の話ではないんですよ。
とどのつまりが、「能力が好き」VS「能力が怖い」の話なんですから(ネタバレになるので見えずらくしています)。
「理性」対「感性」なんてものじゃなく、もっとむき出しの感情同士の話なんですよ。
複雑に見えて、すごくシンプル。だからこそ、人の心に響くんです。
「理にかなっている」構成にする必要なんてないんです。むしろかえって、話を分かりづらくするだけでしょう。
「実写」のほうは、この点をきちんと理解していて、あくまで高校1年の夏を舞台に描いていたところに好感が持てましたね。
「相馬菫はなぜ死んだか」
ここから物語は始まるべきなんです。浅井ケイの思考も行動もすべてはここから始まるのですから。
浅井ケイの、そして春崎美空の感情が大きく動いたところから語り始めるべきなんです。
「アニメ」はなぜ、相馬菫が生きているところから始めなければならなかったのでしょう。なぜ、誰が死んだのかをぼかす必要があったのでしょう。
1~2話は「0話」扱いだという監督はおっしゃっていたそうですが、私にはそこがどうしてもわかりませんでしたね。
●「サクラダリセット」は「哲学」的でもない
善だの偽善だのの“哲学”的な会話なんてものもそうです。
いきなりあんな会話を延々聞かされても視聴者はおいてけぼりでしょう。
はっきり言いますが、「サクラダリセット」は哲学的なんかじゃありません。そんなのはあくまで物語を面白く読ませるためのひとつのエッセンスです。
「サクラダリセット」とは、
あらゆる不幸に抵抗して、ひとつ残らず消してしまおう。
そんな、すごく子供っぽい、でも誰もがどこかでは正しいと思っているような願いを実現できる能力があったらいいなという、非常に「ご都合主義」的な話なんですよ。そして、その是非をめぐって戦いが起こる話なんです。(改めて考えるとすげえ話だな…)
「深い」だの「哲学」だのそんな“幼稚”な言葉でくくって欲しくないくらい、純粋な話なんです。
1話目からあんな会話でごまかして欲しくないんですよ。
能力パズルと同様、そこも物語の面白さではありますが、そこにばかり焦点を当てると本筋を見失うんです。
●「実写」の感想も少し
「実写」のほうはその点、うまく見せていたと思います。
誤解を恐れずにいえば、「いい意味でアイドル映画」になっていたといった感じでしょうか。
変に「深さ」をもったいぶって演出するより、今の若い俳優たちの手で「青春」を描いたほうが、エンターテインメントとして正しい方向性だと思いますね。
それでいて、意外なほどに原作の流れを尊重した脚本になっていましたし、ちゃんと原作を読み込んだ上での“再構築(リ・セット)”といった感じで、原作ファンでも楽しめる映画になっていました。
ただ、前編を見る前に「後編」の予告が始まったのは興ざめでした。
ていうか、あの予告編、むちゃくちゃ「ネタバレ」じゃないですか!
はじめて映画で「サクラダリセット」の世界に触れる人に対してあまりに配慮が欠けますよ。
これは制作スタッフのせいではありませんけど、広報のやり方が手前勝手な感じがして残念でしたね。
あと、「写真に入る」能力の説明が雑というか、あれだと、よくわからないんじゃないかなあという気はしましたね。
他の能力はまあある意味ビジュアル的に分かりやすいんでいいんですけど、あの能力だけは原作でもよく読まないと把握できない部分がありましたからね。
そこはむしろ、たとえ説明口調になってもきちんと見ている側に提示してほしかったなと個人的には感じました。
(ネタバレ:要するに、佐々野さんに「写真の中に入る」能力があるんじゃなくって、誰もがその中に入れる性質を持った「写真」を撮ることができる、というのが彼の能力なんです)
演技のほうも、個人的には特に気になる人はいませんでした。主演二人もよく演じていたと思います。
まあ強いて言えば、岡絵里は強烈だな、とは思いましたけどw
あとは索引さんの「そんなものはない!」ですか(笑)あそこだけは笑いをこらえるのに必死でしたw
「後編」は浦地役としてミッチーが出るようですし、今からすごく楽しみですね。(ちゃんと上映されますよね?)
●きちんと「ファイル」変換していた「実写」と、していなかった「アニメ」
要するに、「実写」のスタッフは、きちんと「ファイル形式」の変換をしていたんですよ。
1時間40分という時間枠の中では、村瀬陽香と岡絵里は一緒に出てきてもいいし、野々尾盛夏も非通知くんも出てこなくてもいいんです。
それよりも、「相馬菫」を死なせてしまったという浅井ケイの後悔と、もう2度とあんなことはしないという決意がそこに映し出されていることこそが重要なんですよ。
「アニメ」のほうは、原作3巻の「クラカワマリ」の話を2話で一気にやろうとしているにもかかわらず、「ファイル」そのままを絵に落とし込もうとしたから、非常にわかりづらい話になっているんです。
要するに必要な部分と必要ではない部分の吟味ができていないような気がしてならないんですね。
2クールといえども、1話が正味20分程度のシリーズで原作7巻をすべて表現することは不可能です。
それならば、どこかで開き直る必要があると思うんですが、どうも「アニメ」の人たちは悪い意味で「原作」への未練があるように見えて、そこがチグハグな雰囲気に繋がっている気がします。
それはまあ、「原作」への愛だとは思いますし、原作ファンとしてはうれしい気持ちもあるんですけど、結果として空回りしているというか、ね。
なんというかすごくもどかしいです。
あとこれは余談ですけど、音楽もやっぱりちょっと合わない感じかなあ。
本当なら「スピッツ」とかが似合う世界なんですけどね。
河野裕氏自身、スピッツの大ファンですし、
なにより、河野さんがよくモチーフとして登場させる「魔女」って、初期の「スピッツ」の名曲「魔女旅に出る」の影響もあると思うんですよ。
まあ、これは無い物ねだりだとはわかっていますけどね。
はじめにも言いましたが、これはあくまで現段階での個人的な感想であって、今後、話が進むにつれて、意見が変わることは十分ありえます。
とにかく、ひとつ言いたいことは、「サクラダリセット」という話は一見複雑そうに見えて、実はすごく単純な話なんだよということです。
それは、原作5巻のモチーフになった「青い鳥」と通じるものがあります。
哲学的で難しそうに見えて、本当はすごくシンプルなことを言いたい話なんです。
ただあまりにシンプルなゆえに、逆に本質が見えづらい話でもあります。
それは「不幸よりは幸せなほうがいい」という、あまりに当たり前すぎてかえってバカにされてしまうような定義と似ています。
そこがこの作品の「弱点」でもあり、また、美しさでもあると思うのです。
今回はそれらを踏まえた上で、原作ファンの立場として感じた事を綴っていきたいと思います。
なお、私は基本的に映画もアニメもあまり詳しくないので、「映画」としてどうとか「アニメ」としてどうだとかを評価するつもりはありません。そういった素養や知識もありませんし、その資格もないと思っていますので。
あくまで「サクラダリセット」という作品としてどうなのかということのみを語っていきます。
あ、あと一つ、おわびを。
前に『「サクラダリセット」を楽しむための5つのこと』という記事を書きましたが、
ごめんなさい、映画やアニメを見る限り、あの5つを押さえれば大丈夫とはさすがに言えない感じですね。初見の人にはやはり原作の世界をまず知っていないとハードルが高いかなというのが率直な感想です。
さて、どちらもまだ完結はしていないので、あくまで暫定的な評価ということをまずはことわっておきます。
その上であえて言いますが、実写とアニメどちらに軍配をあげるかとすれば、私は迷わず「実写」のほうを選びます。もちろん、どちらも問題点はあるのですが、現時点では「実写」のほうが「サクラダリセット」の世界を表現できていたと判断しますね。
原作への「忠実度」としては、アニメのほうが圧倒的に高いです。それは間違いありません。
それに対して「実写」は、キャラクター設定も含めてかなりアレンジしていると言えるでしょう。
しかしそれでも、「サクラダリセット」度は実写のほうが上です。
これは個人的にも面白い発見でした。
よく原作ファンは、他媒体への展開に対して、「監督の独自の解釈とかいらないんだ原作をそのまま動かしてくれればいいんだよ」、と不満を口にします。
どちらかといえば私もそういったタイプだったのですが、今回の「サクラダリセット」で少し考えを改めました。
ただ「忠実」に描けばその世界が忠実に再現されるわけじゃないんですね。
(これは「正しいことはどこか正しくない」と通じるところがあるような気もします)
つまり、小説で使われている“ファイル形式”を、そのまま「アニメ」という“アプリ”で開こうとしてもエラーが出てしまうんですよ。
やはり、そこには「アニメ」に対応している形式に変換する作業が必要なんです。
たぶん、アニメのスタッフは、「原作はこんなに面白いんだから、そのままの素材をそのまま出せばきっと伝わるはずだ」といった感じで、プラットフォームの違いをあまりに軽く考え過ぎていたのではないでしょうか。
●「視点描写」こそが問題
「サクラダリセット」という作品は文体に少し特徴があります。
作者である河野さん自身は、「三人称視点ではあるものの一人称視点的に描かれる作品」とおっしゃっていますが、まあ一般的には「三人称一元視点」といわれるスタイルだと思います。
でもそれだけじゃなくって、「神視点」と「第三者視点」が混在している“主観”視点というか、ところどころ視点があやふやなところがあるんですよ。
さらには、それに加えて、場面場面で一人称視点(語り部)が入れ替わるんです。だから下手すると、読み手を混乱させるだけのものになりかねない構造なんです。
ところが、表現そのものは非常に感情移入しやすい情感豊かな文章になっていて、読者が迷わず世界に入っていける工夫がなされているんですよ。それがまた、独特な味わいとなって“透明度の高い文章”といわれる所以になるわけですね。
で、この一見するとややこしい文体こそが「サクラダリセット」の根幹なんです。
「あらゆる悲しみ」と「自分の悲しみ」をも区別することができない春崎美空というキャラクターは、主観も客観も混じり合った文章だからこそ描けるんです。
(実はこの視点が混じり合う文章というのは、「スワンプマン」や「相馬菫の死」にも大きく繋がってくる重要なポイントなのですが、これは下手すると大きなネタバレにもなるので割愛)
なぜ春崎美空が、「悲しんでいるのは誰」という問いかけに対して「わからない」と答えたのか、アニメを見ただけではなかなかわからないでしょう。(私も原作を読んでなかったらきっと理解できなかったと思います)
「アニメ」であの主観も客観も混じった視点を表現するのは至難の技です。だからこそ、キャラクターの会話や行動をそのままトレースするのではなく、“翻訳”が必要になってくるわけです。
今まで何度か映像化に動いたものの、「特殊能力が入り乱れるルールの複雑さ」や「中盤の大どんでん返し」で行き詰まって断念してきたという話ですが、どうも根本的に間違っているような気がしてきました。
そんなことは、枝葉末節な部分なのではないでしょうか。
本当に「映像化困難」なのは、この「視点描写」の問題だったのではと、今回のアニメを見て感じましたね。
●「サクラダリセット」は「理」の話ではない
もうひとつ、気になったのは「時系列」の問題。
原作では(実写映画も)高校1年の夏から始まるわけですが、アニメでは相馬菫がいた中学2年の春から物語が始まる構成になっています。
原作者の河野さんは「理にかなっている」とおっしゃったそうですが、「理」にかなっているから正しいとは限りません。
実際、「サクラダリセット」は「理」の話ではないんですよ。
とどのつまりが、「能力が好き」VS「能力が怖い」の話なんですから(ネタバレになるので見えずらくしています)。
「理性」対「感性」なんてものじゃなく、もっとむき出しの感情同士の話なんですよ。
複雑に見えて、すごくシンプル。だからこそ、人の心に響くんです。
「理にかなっている」構成にする必要なんてないんです。むしろかえって、話を分かりづらくするだけでしょう。
「実写」のほうは、この点をきちんと理解していて、あくまで高校1年の夏を舞台に描いていたところに好感が持てましたね。
「相馬菫はなぜ死んだか」
ここから物語は始まるべきなんです。浅井ケイの思考も行動もすべてはここから始まるのですから。
浅井ケイの、そして春崎美空の感情が大きく動いたところから語り始めるべきなんです。
「アニメ」はなぜ、相馬菫が生きているところから始めなければならなかったのでしょう。なぜ、誰が死んだのかをぼかす必要があったのでしょう。
1~2話は「0話」扱いだという監督はおっしゃっていたそうですが、私にはそこがどうしてもわかりませんでしたね。
●「サクラダリセット」は「哲学」的でもない
善だの偽善だのの“哲学”的な会話なんてものもそうです。
いきなりあんな会話を延々聞かされても視聴者はおいてけぼりでしょう。
はっきり言いますが、「サクラダリセット」は哲学的なんかじゃありません。そんなのはあくまで物語を面白く読ませるためのひとつのエッセンスです。
「サクラダリセット」とは、
あらゆる不幸に抵抗して、ひとつ残らず消してしまおう。
そんな、すごく子供っぽい、でも誰もがどこかでは正しいと思っているような願いを実現できる能力があったらいいなという、非常に「ご都合主義」的な話なんですよ。そして、その是非をめぐって戦いが起こる話なんです。(改めて考えるとすげえ話だな…)
「深い」だの「哲学」だのそんな“幼稚”な言葉でくくって欲しくないくらい、純粋な話なんです。
1話目からあんな会話でごまかして欲しくないんですよ。
能力パズルと同様、そこも物語の面白さではありますが、そこにばかり焦点を当てると本筋を見失うんです。
●「実写」の感想も少し
「実写」のほうはその点、うまく見せていたと思います。
誤解を恐れずにいえば、「いい意味でアイドル映画」になっていたといった感じでしょうか。
変に「深さ」をもったいぶって演出するより、今の若い俳優たちの手で「青春」を描いたほうが、エンターテインメントとして正しい方向性だと思いますね。
それでいて、意外なほどに原作の流れを尊重した脚本になっていましたし、ちゃんと原作を読み込んだ上での“再構築(リ・セット)”といった感じで、原作ファンでも楽しめる映画になっていました。
ただ、前編を見る前に「後編」の予告が始まったのは興ざめでした。
ていうか、あの予告編、むちゃくちゃ「ネタバレ」じゃないですか!
はじめて映画で「サクラダリセット」の世界に触れる人に対してあまりに配慮が欠けますよ。
これは制作スタッフのせいではありませんけど、広報のやり方が手前勝手な感じがして残念でしたね。
あと、「写真に入る」能力の説明が雑というか、あれだと、よくわからないんじゃないかなあという気はしましたね。
他の能力はまあある意味ビジュアル的に分かりやすいんでいいんですけど、あの能力だけは原作でもよく読まないと把握できない部分がありましたからね。
そこはむしろ、たとえ説明口調になってもきちんと見ている側に提示してほしかったなと個人的には感じました。
(ネタバレ:要するに、佐々野さんに「写真の中に入る」能力があるんじゃなくって、誰もがその中に入れる性質を持った「写真」を撮ることができる、というのが彼の能力なんです)
演技のほうも、個人的には特に気になる人はいませんでした。主演二人もよく演じていたと思います。
まあ強いて言えば、岡絵里は強烈だな、とは思いましたけどw
あとは索引さんの「そんなものはない!」ですか(笑)あそこだけは笑いをこらえるのに必死でしたw
「後編」は浦地役としてミッチーが出るようですし、今からすごく楽しみですね。(ちゃんと上映されますよね?)
●きちんと「ファイル」変換していた「実写」と、していなかった「アニメ」
要するに、「実写」のスタッフは、きちんと「ファイル形式」の変換をしていたんですよ。
1時間40分という時間枠の中では、村瀬陽香と岡絵里は一緒に出てきてもいいし、野々尾盛夏も非通知くんも出てこなくてもいいんです。
それよりも、「相馬菫」を死なせてしまったという浅井ケイの後悔と、もう2度とあんなことはしないという決意がそこに映し出されていることこそが重要なんですよ。
「アニメ」のほうは、原作3巻の「クラカワマリ」の話を2話で一気にやろうとしているにもかかわらず、「ファイル」そのままを絵に落とし込もうとしたから、非常にわかりづらい話になっているんです。
要するに必要な部分と必要ではない部分の吟味ができていないような気がしてならないんですね。
2クールといえども、1話が正味20分程度のシリーズで原作7巻をすべて表現することは不可能です。
それならば、どこかで開き直る必要があると思うんですが、どうも「アニメ」の人たちは悪い意味で「原作」への未練があるように見えて、そこがチグハグな雰囲気に繋がっている気がします。
それはまあ、「原作」への愛だとは思いますし、原作ファンとしてはうれしい気持ちもあるんですけど、結果として空回りしているというか、ね。
なんというかすごくもどかしいです。
あとこれは余談ですけど、音楽もやっぱりちょっと合わない感じかなあ。
本当なら「スピッツ」とかが似合う世界なんですけどね。
河野裕氏自身、スピッツの大ファンですし、
なにより、河野さんがよくモチーフとして登場させる「魔女」って、初期の「スピッツ」の名曲「魔女旅に出る」の影響もあると思うんですよ。
まあ、これは無い物ねだりだとはわかっていますけどね。
はじめにも言いましたが、これはあくまで現段階での個人的な感想であって、今後、話が進むにつれて、意見が変わることは十分ありえます。
とにかく、ひとつ言いたいことは、「サクラダリセット」という話は一見複雑そうに見えて、実はすごく単純な話なんだよということです。
それは、原作5巻のモチーフになった「青い鳥」と通じるものがあります。
哲学的で難しそうに見えて、本当はすごくシンプルなことを言いたい話なんです。
ただあまりにシンプルなゆえに、逆に本質が見えづらい話でもあります。
それは「不幸よりは幸せなほうがいい」という、あまりに当たり前すぎてかえってバカにされてしまうような定義と似ています。
そこがこの作品の「弱点」でもあり、また、美しさでもあると思うのです。
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