「砕け散るところを見せてあげる」感想~竹宮ゆゆこ作品史上もっともゆゆこらしく、もっともわかりやすい物語~
読み終えた直後のエントリーで、私は
「いまだ魂を持っていかれたまま」「言語化するのに多少時間がかかりそう」
と書きました。
で、今回、この竹宮ゆゆこ最新作の感想を書くにあたって、
なにか取っ掛かりがないと、うまく感想記事が書けないなと考えました。
とりあえず、サブタイトルから決めてみるかと思ったんですが、
そのときふと降りてきたのが
「竹宮ゆゆこ作品史上もっともゆゆこらしく、もっともわかりやすい」
というフレーズだったんです。
というのも、読み終えてからAmazonレビューをはじめ、ネット上にある感想を、ざっと見て回ったのですが、
思いの外、「わかりづらい」「終盤のアレは必要なかったのでは」といった声が多かったので、びっくりしたからなんですよ。
正直、「え、マジか」と思いました。
ひょっとして、自分はすごい誤読をしているんじゃないかと不安になりました。
というのも、私が読み終えてまず最初に頭の中に浮かんだことといえば、
「『ゴールデンタイム』のラストもこのくらいわかりやすく書いて欲しかったなあ」だったからです。
うん。この際、はっきり言いましょう。
私は竹宮ゆゆこファンとして、今まで「わたしたちの田村くん」「とらドラ!」「ゴールデンタイム」「知らない映画のサントラを聴く」と読んできましたが、
いいラストだなあと思ったのは、前作の「サントラ」と、今回の「砕け散るところを見せてあげる」だけです。
電撃文庫レーベルで書いた3作品はどれも「大好きな作品だけど、ラストはあまり好きじゃないな」でした。
だから、「竹宮ゆゆこは素晴らしい作家だけど、物語の終わらせ方が若干下手」というのが、今までの持論でもあったんです。
それも、新潮文庫に移ってからの2作品で見事に覆されましたね。
もはや竹宮ゆゆこは、私の中で無敵の存在になりましたよ。
というわけで、今回の「感想」記事は、
なぜ私が「竹宮ゆゆこ作品史上もっともゆゆこらしく、もっともわかりやすい」と感じたのかを、
ファンの立場から説明するような形になります。
なので、一般的な感想・書評とはかなり毛色の違うになるでしょう。
どこまで参考になるかわかりませんが、できればこれをきっかけにして読む人が増えてくれるといいなと、心から思います。
※今回は本作を含む各種ゆゆこ作品のネタバレを含みます。
●ゆゆこは納豆?
大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る……。
あらすじは、やはりこの裏表紙の紹介文が一番わかりやすいでしょうか。
ただ、これだけだと、なんだかすごく重苦しい「鬱系」の「イヤミス」的な作品かと思う人もいるかもしれませんね。
まず、言っておきますが、そんなことはありません。
そこは安心してください、前作「サントラ」同様、やっぱり「いつものようなゆゆこ」です。
もちろん、作中にはそれはそれは陰湿ないじめが出てきます。
姿の見えない恐ろしい巨大な「UFO」も出てきます。
でも、文章はいつもの“ゆゆこ節”なんですよ。
テンポの良い、笑える会話。
どこまでも深く、引きずり込まれていくような感覚の心理描写。
これらがそこにあるだけで、もう「ああ俺は竹宮ゆゆこを読んでいるんだ」と恍惚感を得ることができるんですw(信者やべえなと思われるのは承知の上です)
そもそも、実は竹宮さんの作品って、元々題材は暗く重苦しいものばかりなんですよ。
いじめとか不幸な家庭環境は「わたしたちの田村くん」のヒロイン、松澤や相馬の境遇を思い出させますし、
「とらドラ!」の大河、「ゴールデンタイム」のリンダなども、それぞれ不幸な過去を背負っています。
“ゆゆこ節”とは、それらを竹宮さん独自の会話センスと心理描写で「ライトノベル」に見せているスタイルのことなんですよ。
だからまあ、元々好き嫌いがはっきり分かれる作風だとは思うんです。
話の構造と文体がが合っていない、とか、テーマはリアルなのにキャラクター描写が漫画的すぎてついていけない、とか
もう何度そんな批判を見てきたかわからないくらいですからね。
私なんかはそのギャップというか、その噛み合わなさこそが竹宮ゆゆこの魅力だと思っているので、
そこを指摘されての批判はもう甘んじて受けるしかないかなという感じなんですよ。
ファンとしても、「そうか、そこはしょうがないよね」と言うしかないわけです。
まあ、新潮文庫に移ったことで、初めて竹宮ゆゆこという作家に触れた人も多いでしょう。
そういう方が“ゆゆこ節”への戸惑いを表明するのは当然のことだと思います。
ただ、ファンとしては、変にレーベルを意識しての作風変更をしなかったことで、より信頼感が増しましたね。
竹宮ゆゆこという人は変に「一般文芸」を意識した途端、持ち味がなくなってしまうと思うので。
例えとして合っているかどうかわかりませんが、
納豆が苦手な人にいくら納豆は美味しいよ健康にいいよと言っても仕方がない、といったところでしょうか。
ネバネバがダメと言われても、そのネバネバこそが納豆の納豆たる所以ですから。
※ここから若干ネタバレ気味になります。
●ゆゆこ作品の“集大成”
さて、まずはなぜ、今回が「もっともゆゆこらしい」作品だと思ったのかを説明しましょう。
一言で言うなら「これはいままでのゆゆこ作品の“集大成”だ」と思ったんですね。
「わたしたちの田村くん」「とらドラ!」「ゴールデンタイム」「知らない映画のサントラを聴く」といった、
いままでの作品のエッセンスがすべてつまっているんですよ。
まず、ヒロインである蔵本玻璃の、家族の崩壊そして陰湿ないじめといった境遇は、
どうしても「わたしたちの田村くん」の松澤小巻と相馬広香を思い出させます。
UFOという比喩表現は「とらドラ!」4巻での櫛枝実乃梨の話を彷彿とさせますし、
後半クローズアップされる、玻璃の父親と主人公との対決は「とらドラ!」5巻における大河の父親の話をよりハードにしたかのようです。
そしてラスト近く、ある人物がサンダルのままで駆け出すシーンは、完全に「知らない映画のサントラを聴く」の枇杷そのものです。
何より終盤の“超展開”は、
「ゴールデンタイム」最終8巻の終盤の流れをよりわかりやすく再構築したかのように思えたんですね。
命は等しく、己の亡霊を生み続けている。(『「ゴールデンタイム」8 冬に旅』本文321ページより引用)
「ゴールデンタイム」を読んでいる時にはイマイチわからなかったこのイメージが、
今作品ではすごくクリアに伝わってくるんですよ。
ある意味、ひょっとしてこれは遺作のつもりで書いているんじゃないかと思うくらい、
今までのすべてのエッセンスを感じられる作品になっているんです。
●なぜ「わかりづらい」といわれるのか
次に、なぜ「もっともわかりやすい」と思ったのか、ですが、
これはまあ当然のことながら今までのゆゆこ作品と比較しての相対的な評価になります。
つまり私には「とらドラ!」や「ゴールデンタイム」よりも話がわかりやすかったんですよ。
したがって、今回初めて竹宮ゆゆこを読んだ方が、
「これでわかりやすいって今まではどんだけわけわからなかったんだよ、誰がそんなもの読むか!」
と思われてもそれは仕方ないとは思いますw
ただ、これまで「とらドラ!」や「ゴールデンタイム」を読んできた方の「わからない」は本当に解せないですね。
少なくとも「ゴールデンタイム」のときより、はるかにわかりやすくなっていると思うんだけどなあ。
まあ、「合わない」「苦手」は仕方ないにしても、「わからない」というのはちょっとファンとしては悲しいですね。
いったいなぜ、「わからない」もしくは「わかりづらい」といわれるのか。
いろんな感想を見てみると、どうも物語「構造」が問題視されているようなんです。
いわく、
「いじめをテーマにした普通の青春ラブコメものとして読んでいたら途中から超展開で置いてけぼりに」
「普通の青春物語でよかったのに終盤のあのギミックで混乱させられた」
といった感じで。
市川紗耶さんがいう「まるでひき逃げにあったよう」も、おそらくそういった「物語構造」のことを指しているのでしょう。
(市川さん自身はそういった「構造」を絶賛しているかのようですが)
http://shinchobunko-nex.jp/blog/2016/06/201605-03.html
要するに、その「構造」がよく理解できなかった、という意見、もしくは、
その「構造」は理解したけどそれに特別意味があるとは思えない、といった批判が目に付いたんです。
正直、ショックでしたね。
うーん、そうかあ。
なんだか「構造」にとらわれすぎていて、素直に物語を楽しめていない気がするんだけどなあ……、と思いました。
というわけで、ここからは私なりの読み解き方を記していこうと思います。
もしかしたら、とんでもない読み間違いもあるのかもしれませんが、
あくまで個人の感想ということでご容赦を。
※ここからはネタバレ全開です。一度読み終えてからの観覧をおすすめします。
●「野心的な構造」とは終盤の「●●トリック」ではない
ひとつ、はっきりさせておきたいのですが、物語の「構造」がこの作品の肝ではありません。
すでに読まれた多くの方が言及している終盤の「仕掛け」ですが、それ自体それほど斬新なものではありません。
そこに対するミステリー的な驚きを求めている方には、ご期待に沿うようなものにそもそもなっていないはずなんです。
まあ要するに「●●トリック」なわけですよ。
「●●トリック」と書いてしまうだけである種のネタバレになってしまうような仕掛けといえば、
少しでもミステリものを齧った方にはすぐに察しがついてしまうでしょう。
いまさら、そんなトリックを売りにするのは逆に勇気がいりますよw
よっぽど凝ったアクロバット的な趣向を凝らさないと、もはや成り立たないシロモノだと思いますね。
なので、伊坂幸太郎さんがコメントで「野心的な構造」といっていたのは、
ラスト20~30ページの“あれ”ではないと思うんです。

いえ、伊坂さんの意図はどうであれ、私は“あれ”を「野心的な構造」とは思えません。
この作品の本当の「野心的な構造」はもっと別のところにあるんですよ。
(これについては後述します)
※「●●トリック」だけだとちょっと気持ち悪いので、改めて書いておきますが「叙述トリック」のことです。
ほらこれだけで、もうどういうラストかわかっちゃうでしょ?
●文節の「*」「**」「***」は重要
さて、とにかくまず押えて欲しいことは、
文節ごとに区切られている「*」「**」「***」がすごく重要だということ。
これは「1」「2」といった“章”よりも意味がある区切りなので、そこをひとまず意識して欲しいですね。
で、「*」の数にも意味があるんです。意味なく2つだったり3つだったりしているわけじゃないんです。
試しに、一つだけの「*」が入っている箇所を確認してみてください。
本文22ページから287ページまでに集中していることに気づくでしょう。
(途中、41ページと48ページにおいて、例外的に「**」が出てきますが、これもそれに挟まれた内容が、濱田清澄の「一年生の時の思い出」だということからして、その意味は明白です)
要するに、「*」の数が「時間の経過」を意味しているわけです。
時間の向きは様々で、「未来」だったり「過去」だったりしますが、
とにかく、「**」と「***」が出てきた時は、
それまでの時間軸とは違う話になっているんだということさえ踏まえれば、かなりわかりやすくなるはずです。
で、「**」そして「***」が出てくるのは、序盤と終盤のみなわけですよ。(一年時の思い出シーンは除く)
これが分かればこの物語の「構造」も明らかでしょう。
「ゴールデンタイム」のときは、こんなわかりやすいマークはありませんでしたからね。
全部、文節は「***」だけでしたから。
これだけでも今回、読者になるべくわかりやすくしようと工夫していることは明らかです。
意図的に凝った「構造」で混乱させているわけじゃないんですよ。
●ここからは誰の話?
それだけではありません。
さらにこの作品では、読者を混乱させないための工夫を施しています。
ここからすこしだけ亡き父の話。それと母さんの話。(本文16ページより引用)
ここまでが父さんの話だ。それと、母さんの話。すこしだけ俺の話もあったか。(本文20ページより引用)
で、ここからが本当に俺の話。(本文21ページより引用)
もう、これだけ引用したら本当にネタバレとしか言いようがないのですが、
もうこれは文字通りに取っていいんですよ。
つまり、ご丁寧にも、本文中でここから「誰の」話なのか、ちゃんとレクチャーしてくれているわけです。
極め付けは終盤近くのこれですよ。
ここまでが俺の話。濱田清澄と、蔵本玻璃の話。
ここからは誰の話?(本文300ページより引用)
もうはっきり書いているじゃないですか。
「ここまで」と「ここから」って。
こんなにしっかりと「ここまでは俺の話でここからは違う誰かの話になるんですよ」と書いていて、
読者を欺すための「構造」なわけがありません。
もしそうならあまりに間抜けすぎますよ。
要するに、小説の「構造」で驚かせてやろうなんて意図は一切ないんです。
逆に、なんとか読者に対して素直に読んでもらおうといろんな策を講じているんですね。
●周波数を合わせて
それでも、なかなか「わかりづらい」という人は、なんとか周波数を合わせてください。
耳を澄まして新たなチャンネルを探してください。
きっと、見つかるはずです。
ちゃんと周波数を合わせて、探してチャンネルを開け。(本文235ページより引用)
いじめられていた彼女を助けたはずの清澄が聞いた、蔵本玻璃の理不尽な「あああああああ!」という絶叫。
彼もはじめは、玻璃のことを言葉もろくに通じない、意志の疎通もできないようなやばい奴だと思っていました。
この作品が「わかりづらい」と思っている人も、
たぶん清澄が最初に蔵本玻璃と出会ったときと同じなんですよ。
理不尽な「ああああああああ!」に戸惑っているだけなんです。
でも、きちんとアンテナを立てればわかるはずなんです。
でもこの子は普通の子だ。降り注ぐミサイルの雨が着弾すれば、痛くて涙もでるし血も出る子。(本文80ページより引用)
そう、彼が玻璃を血も涙もある子なんだと気付いたように、
きっとあなたにも、この作品が意味不明なやばい奴なんかではなく、優しさに溢れた愛の物語であることに気づくはずなんです。
●そういうふうになっている
さて、ここまでの話で、こんな疑問が浮かんでくる人もいるかもしれません。
「構造」で読み手を混乱させる意図がないことはわかった。
なんとかわかりやすくしようとしていることもわかった。
でもそもそも、なんでそんなややこしいことをする必要があるんだよ。
最初から最後まで濱田清澄と蔵本玻璃の切ない青春ストーリーを素直に書けばいいじゃねーか。
まあ、そうですよね。
確かに「濱田清澄と蔵本玻璃の切ない青春ストーリー」を描きたいだけなら、その批判は当然だと思います。
でも違うんですよ。
これはいままでのゆゆこ作品に対する批判への答えにもなるんですけど、
「とらドラ!」も「ゴールデンタイム」も「青春ラブコメ」がテーマじゃなかったんです。
そして、今回の「砕け散るところを見せてあげる」も「青春ラブコメ」がテーマじゃないんです。
ましてや「いじめ問題」とか「家族崩壊」とか「残酷な社会構造」とかそういうことが言いたいわけじゃないんです。
竹宮ゆゆこが「とらドラ!」以降、ずっと描きたかったことはただひとつ。
それは、
そういうふうになっている。
これだと思うんです。
そう、「とらドラ!」の序文にあったこの文章。
―――この世界の誰一人見たことがないものがある。
それは優しくてとても甘い。
多分、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ。
だからこそ、誰もそれを見たことがない。
そう簡単に手に入れられないように、世界がそれを隠したのだ。
だけど、いつかは誰かが見つける。
手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる。
そういうふうになっている。
この「世界はそうなっている」ということ。
それを証明したくって竹宮ゆゆこは小説を書いているのだと思うんです。
この言葉は「とらドラ!」最終巻のラストでも再び繰り返されます。
そして、そこにはこんな言葉が付け加えられていました。
目をちゃんと見開いていれば、竜児にだって見つけられる。ちゃんと前を向いていれば、大丈夫。
大河にだって、見つけられる。
そういうふうになっている。(「とらドラ10!」本文239ページより引用)
そう、「とらドラ!」という物語は、竜児と大河が「それを」見つけたところで完結したわけです。
ただ正直に言うと、
私は「とらドラ!」のラストで、なぜ、竜児や大河がそれを見つけられたのか、よくわからなかったんですね。
なぜ、終盤、急に竜児が悟ったように「悲しくてもいいんだ」とか、「大河!行け!行っちまえー!」と叫んだのかとか、ピンとこなかったんですよ。
それは「ゴールデンタイム」のラストでも同様です。
あの橋のシーンでのリンダの「イエーーーーーーーース!」は、私にはあまりに唐突すぎてわからなかったんです。
脈略もなく、ただハイテンションで「とにかく、そういうふうになってるの!」と主張されても、
なんだか腑に落ちない思いが残ってしまうんですね。
●二つ目のUFOとは
ところが、今回の「砕け散るところを見せてあげる」では、はっきりわかったんです。
蔵本玻璃が一つ目のUFOを撃ち落とせた理由。
濱田清澄がヒーローの存在を信じなくなった理由。
そして、どうしても諦められなくてもう一度「蔵本玻璃」を孤独から引っ張り上げようとした理由。
まさに世界は「そういうふうになっている」からこそ、彼は二つ目のUFOを撃ち落とすことができたんですよ。
だから、二つ目のUFOの意味について、私の考えは至極単純です。
「そういうふうになっている」ことを信じられなくなったこと。
これだったと思うんです。
要するに、巨大なUFOが「簡単に見つからないようにそれを隠していた」んですよ。
だからこそ、濱田清澄が二つ目のUFOを撃ち落としたときに、玻璃は「真っ赤な嵐」と出会えたわけです。
つまり、「真っ赤な嵐」はこの世界が「そういうふうになっている」ことの証明でもあったのです。
●「最後の一文」について
そういえば、「読む前の覚書」のときに、
「最後の一文」で涙したかどうかを触れるつもりだと約束していましたので、一応、ここではっきりさせておきましょうか。
えー、
「最後の一文」では泣きませんでした。
……ただ、最後の一文とかではなく、ラスト10ページ前からは、
もうずっと目に涙浮かべながら読んでいましたけどね。
いや、本当に、
ここからは誰の話?(本文300ページ)
以降、ずっとうるうるしっぱなしだったんですよ。
だから、最後の一文どうのこうのというのは、正直よくわからなかったです。
ていうかこれ、「最後の一文」というアオリが変な期待をさせちゃうんですよ。
これだと、例えば、米澤穂信の「儚き羊たちの祝宴」における「最後の一撃」的なインパクトを想像しちゃうじゃないですか。
要するに「どんでん返し」的な驚きを期待しちゃう人も多いと思うんです。
そういうことじゃないんですよ。
そんな「今まで読んできたことが、最後で根底から覆される!」みたいなことじゃないんです。
ていうか、この作品は、
「そういうふうになっている」ことを信じられた時点で、自然に泣けるんですよ。
少なくとも301ページ以降、私にはずっと同じメッセージだけが伝わってきました。だから泣けたんです。
何も「最後の一文」に限定する必要なんてないんです。
……やっぱり、新潮文庫NEX編集部って、どこかセンスがずれているような気がしますね。
●どこが本当の意味で「野心的な構造」だったのか
というわけで、後半30ページからの「●●トリック」が、私には「野心的な構造」とは思えません。
単に「そういうふうになっている」ことを証明するために、必要な手法だっただけだと私は考えています。
ただ、「砕け散るところを見せてあげる」は確かに「野心的な構造」だったとも思うんですね。
伊坂幸太郎氏は「野心的な構造」という言葉の後にこう書いています。
この作家は、キャラクター小説を、小説の持つ悦びの深いところにまで繋げようとしています。
それは、今までのような“ゆゆこ節”とはレベルが違う「繋げ方」だったんです。
単に重い題材を軽くコーディネートしたのとはわけが違うんですよ。
だからこそ、伊坂さんは「持っていこう」でもなく「引っ張っていこう」でもなく、
「繋げよう」という言葉を使ったんじゃないかと勝手に思っていますね。
例えば、
「おしるこのマスクは、なくても……?」
「ああ。すでにパワーは腹に収めたからな。やがて毛穴から成分が噴き出して、俺の顔を自動的にしるこパッケージが覆うだろう!」
「そんなシステム!?」(本文120から121ページより引用)
なんていう、いかにもゆゆこらしいネタ的会話。
例えば、
「……おはぎにも、死後の魂があるんでしょうか」
「あるんじゃねえ? 八百万の神っていうだろ」
「じゃあ、もち米の魂と、小豆の魂と、あと砂糖きびの魂の集合体ですね」(本文133ページより引用)
みたいな、いわゆるキャラ萌え的な(笑)ラノベ感。
例えば、
「ヒーローは、なにでできているでしょう!?」
「成分の話? タンパク質!」
「ぶー! 正解は、酸素です!」(本文266ページより引用)
といった、読んでいて恥ずかしくなるようなやりとり。
この、いかにもネタっぽいゆゆこギャグの数々。
これらがすべて、「小説の持つ悦び」の深いところに繋がっているんですよ。
こんなくだらない、いつものゆゆこらしいネタそのものの会話すべてが、終盤の大きな感動に繋がっていくんです。
これは今までのゆゆこ作品でも見られなかった、相当思い切った「構造」なんです。
ヒーローの話も最終的にそこに繋がっていくんです。
ラスト30ページを読めばそれがわかるんです。
そして、最後。
あの彼女が、
「いつか、本当に変身する方法を教えてあげる日がくるかもね」(本文310ページより引用)
と言ったこのセリフ。
彼女がこのあと、どういう仕草をしたか。
そこを是非、今からでも確かめてください。
「最後の一文」よりもまず、ここで泣いてしまうはずです。
こんな「キャラクター小説」ならばの要素がすべて、この小説の一番深いところに繋がっている。
これこそが、本作品の最大の「野心的な構造」だったのです。
●砕け散るところを見せてあげる
最後になぜ私が竹宮ゆゆこファンなのかを、ここに記して今回のエントリーを終わりにします。
私は竹宮ゆゆこ作品に、基本的に「考えさせられる」とか「癒される」といったことは求めていません。
もしかしたら「感動」さえも期待していないかもしれません。
私がゆゆこ作品に求めていること。
それは「衝動」なんです。
無性に叫びたい。走り出したい。
私はゆゆこ作品を読む時、いつもそんな衝動に駆られます。
あるいは、揺さぶられるような「焦燥」といってもいいのかもしれません。
とにかく、なんだかよくわからない感情に突き上げられる感覚こそがゆゆこの最大の魅力なんです。
猛然と、突っ走りたい衝動にかられていた。生きなきゃと思った時と同じ強さで、私は今、いかなきゃと思っていた。(本文308ページより引用)
だから、今回の「砕け散るところを見せてあげる」のラスト近くで、ある人物のこのシーンにはむちゃくちゃ興奮させられました。
前作の「知らない映画のサントラを聴く」でも似たような場面がありましたが、今回の方が、より説得力を持って迫ってくるんです。
きっと波長が合うんでしょう。
わたしには、あの蔵本玻璃の「ああああああああ!」という絶叫が自分にも伝わってしまい、
最初は清澄に対してイラだっていたくらいでしたから。
なんで玻璃の本当の気持ちがわからないんだ!てね。(まあ客観的に見れば、ドン引きされて当然だとも思いますがw)
「ああああああああ!」という、あのわけわからないリアクション。
実はあそこに、竹宮ゆゆこの魅力が詰まっているといっても過言ではないと思います。
あの理屈ではない叫びがそこにある限り、私はずっとゆゆこ作品を追い続けることでしょう。
「いまだ魂を持っていかれたまま」「言語化するのに多少時間がかかりそう」
と書きました。
で、今回、この竹宮ゆゆこ最新作の感想を書くにあたって、
なにか取っ掛かりがないと、うまく感想記事が書けないなと考えました。
とりあえず、サブタイトルから決めてみるかと思ったんですが、
そのときふと降りてきたのが
「竹宮ゆゆこ作品史上もっともゆゆこらしく、もっともわかりやすい」
というフレーズだったんです。
というのも、読み終えてからAmazonレビューをはじめ、ネット上にある感想を、ざっと見て回ったのですが、
思いの外、「わかりづらい」「終盤のアレは必要なかったのでは」といった声が多かったので、びっくりしたからなんですよ。
正直、「え、マジか」と思いました。
ひょっとして、自分はすごい誤読をしているんじゃないかと不安になりました。
というのも、私が読み終えてまず最初に頭の中に浮かんだことといえば、
「『ゴールデンタイム』のラストもこのくらいわかりやすく書いて欲しかったなあ」だったからです。
うん。この際、はっきり言いましょう。
私は竹宮ゆゆこファンとして、今まで「わたしたちの田村くん」「とらドラ!」「ゴールデンタイム」「知らない映画のサントラを聴く」と読んできましたが、
いいラストだなあと思ったのは、前作の「サントラ」と、今回の「砕け散るところを見せてあげる」だけです。
電撃文庫レーベルで書いた3作品はどれも「大好きな作品だけど、ラストはあまり好きじゃないな」でした。
だから、「竹宮ゆゆこは素晴らしい作家だけど、物語の終わらせ方が若干下手」というのが、今までの持論でもあったんです。
それも、新潮文庫に移ってからの2作品で見事に覆されましたね。
もはや竹宮ゆゆこは、私の中で無敵の存在になりましたよ。
というわけで、今回の「感想」記事は、
なぜ私が「竹宮ゆゆこ作品史上もっともゆゆこらしく、もっともわかりやすい」と感じたのかを、
ファンの立場から説明するような形になります。
なので、一般的な感想・書評とはかなり毛色の違うになるでしょう。
どこまで参考になるかわかりませんが、できればこれをきっかけにして読む人が増えてくれるといいなと、心から思います。
※今回は本作を含む各種ゆゆこ作品のネタバレを含みます。
●ゆゆこは納豆?
大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る……。
あらすじは、やはりこの裏表紙の紹介文が一番わかりやすいでしょうか。
ただ、これだけだと、なんだかすごく重苦しい「鬱系」の「イヤミス」的な作品かと思う人もいるかもしれませんね。
まず、言っておきますが、そんなことはありません。
そこは安心してください、前作「サントラ」同様、やっぱり「いつものようなゆゆこ」です。
もちろん、作中にはそれはそれは陰湿ないじめが出てきます。
姿の見えない恐ろしい巨大な「UFO」も出てきます。
でも、文章はいつもの“ゆゆこ節”なんですよ。
テンポの良い、笑える会話。
どこまでも深く、引きずり込まれていくような感覚の心理描写。
これらがそこにあるだけで、もう「ああ俺は竹宮ゆゆこを読んでいるんだ」と恍惚感を得ることができるんですw(信者やべえなと思われるのは承知の上です)
そもそも、実は竹宮さんの作品って、元々題材は暗く重苦しいものばかりなんですよ。
いじめとか不幸な家庭環境は「わたしたちの田村くん」のヒロイン、松澤や相馬の境遇を思い出させますし、
「とらドラ!」の大河、「ゴールデンタイム」のリンダなども、それぞれ不幸な過去を背負っています。
“ゆゆこ節”とは、それらを竹宮さん独自の会話センスと心理描写で「ライトノベル」に見せているスタイルのことなんですよ。
だからまあ、元々好き嫌いがはっきり分かれる作風だとは思うんです。
話の構造と文体がが合っていない、とか、テーマはリアルなのにキャラクター描写が漫画的すぎてついていけない、とか
もう何度そんな批判を見てきたかわからないくらいですからね。
私なんかはそのギャップというか、その噛み合わなさこそが竹宮ゆゆこの魅力だと思っているので、
そこを指摘されての批判はもう甘んじて受けるしかないかなという感じなんですよ。
ファンとしても、「そうか、そこはしょうがないよね」と言うしかないわけです。
まあ、新潮文庫に移ったことで、初めて竹宮ゆゆこという作家に触れた人も多いでしょう。
そういう方が“ゆゆこ節”への戸惑いを表明するのは当然のことだと思います。
ただ、ファンとしては、変にレーベルを意識しての作風変更をしなかったことで、より信頼感が増しましたね。
竹宮ゆゆこという人は変に「一般文芸」を意識した途端、持ち味がなくなってしまうと思うので。
例えとして合っているかどうかわかりませんが、
納豆が苦手な人にいくら納豆は美味しいよ健康にいいよと言っても仕方がない、といったところでしょうか。
ネバネバがダメと言われても、そのネバネバこそが納豆の納豆たる所以ですから。
※ここから若干ネタバレ気味になります。
●ゆゆこ作品の“集大成”
さて、まずはなぜ、今回が「もっともゆゆこらしい」作品だと思ったのかを説明しましょう。
一言で言うなら「これはいままでのゆゆこ作品の“集大成”だ」と思ったんですね。
「わたしたちの田村くん」「とらドラ!」「ゴールデンタイム」「知らない映画のサントラを聴く」といった、
いままでの作品のエッセンスがすべてつまっているんですよ。
まず、ヒロインである蔵本玻璃の、家族の崩壊そして陰湿ないじめといった境遇は、
どうしても「わたしたちの田村くん」の松澤小巻と相馬広香を思い出させます。
UFOという比喩表現は「とらドラ!」4巻での櫛枝実乃梨の話を彷彿とさせますし、
後半クローズアップされる、玻璃の父親と主人公との対決は「とらドラ!」5巻における大河の父親の話をよりハードにしたかのようです。
そしてラスト近く、ある人物がサンダルのままで駆け出すシーンは、完全に「知らない映画のサントラを聴く」の枇杷そのものです。
何より終盤の“超展開”は、
「ゴールデンタイム」最終8巻の終盤の流れをよりわかりやすく再構築したかのように思えたんですね。
命は等しく、己の亡霊を生み続けている。(『「ゴールデンタイム」8 冬に旅』本文321ページより引用)
「ゴールデンタイム」を読んでいる時にはイマイチわからなかったこのイメージが、
今作品ではすごくクリアに伝わってくるんですよ。
ある意味、ひょっとしてこれは遺作のつもりで書いているんじゃないかと思うくらい、
今までのすべてのエッセンスを感じられる作品になっているんです。
●なぜ「わかりづらい」といわれるのか
次に、なぜ「もっともわかりやすい」と思ったのか、ですが、
これはまあ当然のことながら今までのゆゆこ作品と比較しての相対的な評価になります。
つまり私には「とらドラ!」や「ゴールデンタイム」よりも話がわかりやすかったんですよ。
したがって、今回初めて竹宮ゆゆこを読んだ方が、
「これでわかりやすいって今まではどんだけわけわからなかったんだよ、誰がそんなもの読むか!」
と思われてもそれは仕方ないとは思いますw
ただ、これまで「とらドラ!」や「ゴールデンタイム」を読んできた方の「わからない」は本当に解せないですね。
少なくとも「ゴールデンタイム」のときより、はるかにわかりやすくなっていると思うんだけどなあ。
まあ、「合わない」「苦手」は仕方ないにしても、「わからない」というのはちょっとファンとしては悲しいですね。
いったいなぜ、「わからない」もしくは「わかりづらい」といわれるのか。
いろんな感想を見てみると、どうも物語「構造」が問題視されているようなんです。
いわく、
「いじめをテーマにした普通の青春ラブコメものとして読んでいたら途中から超展開で置いてけぼりに」
「普通の青春物語でよかったのに終盤のあのギミックで混乱させられた」
といった感じで。
市川紗耶さんがいう「まるでひき逃げにあったよう」も、おそらくそういった「物語構造」のことを指しているのでしょう。
(市川さん自身はそういった「構造」を絶賛しているかのようですが)
http://shinchobunko-nex.jp/blog/2016/06/201605-03.html
要するに、その「構造」がよく理解できなかった、という意見、もしくは、
その「構造」は理解したけどそれに特別意味があるとは思えない、といった批判が目に付いたんです。
正直、ショックでしたね。
うーん、そうかあ。
なんだか「構造」にとらわれすぎていて、素直に物語を楽しめていない気がするんだけどなあ……、と思いました。
というわけで、ここからは私なりの読み解き方を記していこうと思います。
もしかしたら、とんでもない読み間違いもあるのかもしれませんが、
あくまで個人の感想ということでご容赦を。
※ここからはネタバレ全開です。一度読み終えてからの観覧をおすすめします。
●「野心的な構造」とは終盤の「●●トリック」ではない
ひとつ、はっきりさせておきたいのですが、物語の「構造」がこの作品の肝ではありません。
すでに読まれた多くの方が言及している終盤の「仕掛け」ですが、それ自体それほど斬新なものではありません。
そこに対するミステリー的な驚きを求めている方には、ご期待に沿うようなものにそもそもなっていないはずなんです。
まあ要するに「●●トリック」なわけですよ。
「●●トリック」と書いてしまうだけである種のネタバレになってしまうような仕掛けといえば、
少しでもミステリものを齧った方にはすぐに察しがついてしまうでしょう。
いまさら、そんなトリックを売りにするのは逆に勇気がいりますよw
よっぽど凝ったアクロバット的な趣向を凝らさないと、もはや成り立たないシロモノだと思いますね。
なので、伊坂幸太郎さんがコメントで「野心的な構造」といっていたのは、
ラスト20~30ページの“あれ”ではないと思うんです。

いえ、伊坂さんの意図はどうであれ、私は“あれ”を「野心的な構造」とは思えません。
この作品の本当の「野心的な構造」はもっと別のところにあるんですよ。
(これについては後述します)
※「●●トリック」だけだとちょっと気持ち悪いので、改めて書いておきますが「叙述トリック」のことです。
ほらこれだけで、もうどういうラストかわかっちゃうでしょ?
●文節の「*」「**」「***」は重要
さて、とにかくまず押えて欲しいことは、
文節ごとに区切られている「*」「**」「***」がすごく重要だということ。
これは「1」「2」といった“章”よりも意味がある区切りなので、そこをひとまず意識して欲しいですね。
で、「*」の数にも意味があるんです。意味なく2つだったり3つだったりしているわけじゃないんです。
試しに、一つだけの「*」が入っている箇所を確認してみてください。
本文22ページから287ページまでに集中していることに気づくでしょう。
(途中、41ページと48ページにおいて、例外的に「**」が出てきますが、これもそれに挟まれた内容が、濱田清澄の「一年生の時の思い出」だということからして、その意味は明白です)
要するに、「*」の数が「時間の経過」を意味しているわけです。
時間の向きは様々で、「未来」だったり「過去」だったりしますが、
とにかく、「**」と「***」が出てきた時は、
それまでの時間軸とは違う話になっているんだということさえ踏まえれば、かなりわかりやすくなるはずです。
で、「**」そして「***」が出てくるのは、序盤と終盤のみなわけですよ。(一年時の思い出シーンは除く)
これが分かればこの物語の「構造」も明らかでしょう。
「ゴールデンタイム」のときは、こんなわかりやすいマークはありませんでしたからね。
全部、文節は「***」だけでしたから。
これだけでも今回、読者になるべくわかりやすくしようと工夫していることは明らかです。
意図的に凝った「構造」で混乱させているわけじゃないんですよ。
●ここからは誰の話?
それだけではありません。
さらにこの作品では、読者を混乱させないための工夫を施しています。
ここからすこしだけ亡き父の話。それと母さんの話。(本文16ページより引用)
ここまでが父さんの話だ。それと、母さんの話。すこしだけ俺の話もあったか。(本文20ページより引用)
で、ここからが本当に俺の話。(本文21ページより引用)
もう、これだけ引用したら本当にネタバレとしか言いようがないのですが、
もうこれは文字通りに取っていいんですよ。
つまり、ご丁寧にも、本文中でここから「誰の」話なのか、ちゃんとレクチャーしてくれているわけです。
極め付けは終盤近くのこれですよ。
ここまでが俺の話。濱田清澄と、蔵本玻璃の話。
ここからは誰の話?(本文300ページより引用)
もうはっきり書いているじゃないですか。
「ここまで」と「ここから」って。
こんなにしっかりと「ここまでは俺の話でここからは違う誰かの話になるんですよ」と書いていて、
読者を欺すための「構造」なわけがありません。
もしそうならあまりに間抜けすぎますよ。
要するに、小説の「構造」で驚かせてやろうなんて意図は一切ないんです。
逆に、なんとか読者に対して素直に読んでもらおうといろんな策を講じているんですね。
●周波数を合わせて
それでも、なかなか「わかりづらい」という人は、なんとか周波数を合わせてください。
耳を澄まして新たなチャンネルを探してください。
きっと、見つかるはずです。
ちゃんと周波数を合わせて、探してチャンネルを開け。(本文235ページより引用)
いじめられていた彼女を助けたはずの清澄が聞いた、蔵本玻璃の理不尽な「あああああああ!」という絶叫。
彼もはじめは、玻璃のことを言葉もろくに通じない、意志の疎通もできないようなやばい奴だと思っていました。
この作品が「わかりづらい」と思っている人も、
たぶん清澄が最初に蔵本玻璃と出会ったときと同じなんですよ。
理不尽な「ああああああああ!」に戸惑っているだけなんです。
でも、きちんとアンテナを立てればわかるはずなんです。
でもこの子は普通の子だ。降り注ぐミサイルの雨が着弾すれば、痛くて涙もでるし血も出る子。(本文80ページより引用)
そう、彼が玻璃を血も涙もある子なんだと気付いたように、
きっとあなたにも、この作品が意味不明なやばい奴なんかではなく、優しさに溢れた愛の物語であることに気づくはずなんです。
●そういうふうになっている
さて、ここまでの話で、こんな疑問が浮かんでくる人もいるかもしれません。
「構造」で読み手を混乱させる意図がないことはわかった。
なんとかわかりやすくしようとしていることもわかった。
でもそもそも、なんでそんなややこしいことをする必要があるんだよ。
最初から最後まで濱田清澄と蔵本玻璃の切ない青春ストーリーを素直に書けばいいじゃねーか。
まあ、そうですよね。
確かに「濱田清澄と蔵本玻璃の切ない青春ストーリー」を描きたいだけなら、その批判は当然だと思います。
でも違うんですよ。
これはいままでのゆゆこ作品に対する批判への答えにもなるんですけど、
「とらドラ!」も「ゴールデンタイム」も「青春ラブコメ」がテーマじゃなかったんです。
そして、今回の「砕け散るところを見せてあげる」も「青春ラブコメ」がテーマじゃないんです。
ましてや「いじめ問題」とか「家族崩壊」とか「残酷な社会構造」とかそういうことが言いたいわけじゃないんです。
竹宮ゆゆこが「とらドラ!」以降、ずっと描きたかったことはただひとつ。
それは、
そういうふうになっている。
これだと思うんです。
そう、「とらドラ!」の序文にあったこの文章。
―――この世界の誰一人見たことがないものがある。
それは優しくてとても甘い。
多分、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ。
だからこそ、誰もそれを見たことがない。
そう簡単に手に入れられないように、世界がそれを隠したのだ。
だけど、いつかは誰かが見つける。
手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる。
そういうふうになっている。
この「世界はそうなっている」ということ。
それを証明したくって竹宮ゆゆこは小説を書いているのだと思うんです。
この言葉は「とらドラ!」最終巻のラストでも再び繰り返されます。
そして、そこにはこんな言葉が付け加えられていました。
目をちゃんと見開いていれば、竜児にだって見つけられる。ちゃんと前を向いていれば、大丈夫。
大河にだって、見つけられる。
そういうふうになっている。(「とらドラ10!」本文239ページより引用)
そう、「とらドラ!」という物語は、竜児と大河が「それを」見つけたところで完結したわけです。
ただ正直に言うと、
私は「とらドラ!」のラストで、なぜ、竜児や大河がそれを見つけられたのか、よくわからなかったんですね。
なぜ、終盤、急に竜児が悟ったように「悲しくてもいいんだ」とか、「大河!行け!行っちまえー!」と叫んだのかとか、ピンとこなかったんですよ。
それは「ゴールデンタイム」のラストでも同様です。
あの橋のシーンでのリンダの「イエーーーーーーーース!」は、私にはあまりに唐突すぎてわからなかったんです。
脈略もなく、ただハイテンションで「とにかく、そういうふうになってるの!」と主張されても、
なんだか腑に落ちない思いが残ってしまうんですね。
●二つ目のUFOとは
ところが、今回の「砕け散るところを見せてあげる」では、はっきりわかったんです。
蔵本玻璃が一つ目のUFOを撃ち落とせた理由。
濱田清澄がヒーローの存在を信じなくなった理由。
そして、どうしても諦められなくてもう一度「蔵本玻璃」を孤独から引っ張り上げようとした理由。
まさに世界は「そういうふうになっている」からこそ、彼は二つ目のUFOを撃ち落とすことができたんですよ。
だから、二つ目のUFOの意味について、私の考えは至極単純です。
「そういうふうになっている」ことを信じられなくなったこと。
これだったと思うんです。
要するに、巨大なUFOが「簡単に見つからないようにそれを隠していた」んですよ。
だからこそ、濱田清澄が二つ目のUFOを撃ち落としたときに、玻璃は「真っ赤な嵐」と出会えたわけです。
つまり、「真っ赤な嵐」はこの世界が「そういうふうになっている」ことの証明でもあったのです。
●「最後の一文」について
そういえば、「読む前の覚書」のときに、
「最後の一文」で涙したかどうかを触れるつもりだと約束していましたので、一応、ここではっきりさせておきましょうか。
えー、
「最後の一文」では泣きませんでした。
……ただ、最後の一文とかではなく、ラスト10ページ前からは、
もうずっと目に涙浮かべながら読んでいましたけどね。
いや、本当に、
ここからは誰の話?(本文300ページ)
以降、ずっとうるうるしっぱなしだったんですよ。
だから、最後の一文どうのこうのというのは、正直よくわからなかったです。
ていうかこれ、「最後の一文」というアオリが変な期待をさせちゃうんですよ。
これだと、例えば、米澤穂信の「儚き羊たちの祝宴」における「最後の一撃」的なインパクトを想像しちゃうじゃないですか。
要するに「どんでん返し」的な驚きを期待しちゃう人も多いと思うんです。
そういうことじゃないんですよ。
そんな「今まで読んできたことが、最後で根底から覆される!」みたいなことじゃないんです。
ていうか、この作品は、
「そういうふうになっている」ことを信じられた時点で、自然に泣けるんですよ。
少なくとも301ページ以降、私にはずっと同じメッセージだけが伝わってきました。だから泣けたんです。
何も「最後の一文」に限定する必要なんてないんです。
……やっぱり、新潮文庫NEX編集部って、どこかセンスがずれているような気がしますね。
●どこが本当の意味で「野心的な構造」だったのか
というわけで、後半30ページからの「●●トリック」が、私には「野心的な構造」とは思えません。
単に「そういうふうになっている」ことを証明するために、必要な手法だっただけだと私は考えています。
ただ、「砕け散るところを見せてあげる」は確かに「野心的な構造」だったとも思うんですね。
伊坂幸太郎氏は「野心的な構造」という言葉の後にこう書いています。
この作家は、キャラクター小説を、小説の持つ悦びの深いところにまで繋げようとしています。
それは、今までのような“ゆゆこ節”とはレベルが違う「繋げ方」だったんです。
単に重い題材を軽くコーディネートしたのとはわけが違うんですよ。
だからこそ、伊坂さんは「持っていこう」でもなく「引っ張っていこう」でもなく、
「繋げよう」という言葉を使ったんじゃないかと勝手に思っていますね。
例えば、
「おしるこのマスクは、なくても……?」
「ああ。すでにパワーは腹に収めたからな。やがて毛穴から成分が噴き出して、俺の顔を自動的にしるこパッケージが覆うだろう!」
「そんなシステム!?」(本文120から121ページより引用)
なんていう、いかにもゆゆこらしいネタ的会話。
例えば、
「……おはぎにも、死後の魂があるんでしょうか」
「あるんじゃねえ? 八百万の神っていうだろ」
「じゃあ、もち米の魂と、小豆の魂と、あと砂糖きびの魂の集合体ですね」(本文133ページより引用)
みたいな、いわゆるキャラ萌え的な(笑)ラノベ感。
例えば、
「ヒーローは、なにでできているでしょう!?」
「成分の話? タンパク質!」
「ぶー! 正解は、酸素です!」(本文266ページより引用)
といった、読んでいて恥ずかしくなるようなやりとり。
この、いかにもネタっぽいゆゆこギャグの数々。
これらがすべて、「小説の持つ悦び」の深いところに繋がっているんですよ。
こんなくだらない、いつものゆゆこらしいネタそのものの会話すべてが、終盤の大きな感動に繋がっていくんです。
これは今までのゆゆこ作品でも見られなかった、相当思い切った「構造」なんです。
ヒーローの話も最終的にそこに繋がっていくんです。
ラスト30ページを読めばそれがわかるんです。
そして、最後。
あの彼女が、
「いつか、本当に変身する方法を教えてあげる日がくるかもね」(本文310ページより引用)
と言ったこのセリフ。
彼女がこのあと、どういう仕草をしたか。
そこを是非、今からでも確かめてください。
「最後の一文」よりもまず、ここで泣いてしまうはずです。
こんな「キャラクター小説」ならばの要素がすべて、この小説の一番深いところに繋がっている。
これこそが、本作品の最大の「野心的な構造」だったのです。
●砕け散るところを見せてあげる
最後になぜ私が竹宮ゆゆこファンなのかを、ここに記して今回のエントリーを終わりにします。
私は竹宮ゆゆこ作品に、基本的に「考えさせられる」とか「癒される」といったことは求めていません。
もしかしたら「感動」さえも期待していないかもしれません。
私がゆゆこ作品に求めていること。
それは「衝動」なんです。
無性に叫びたい。走り出したい。
私はゆゆこ作品を読む時、いつもそんな衝動に駆られます。
あるいは、揺さぶられるような「焦燥」といってもいいのかもしれません。
とにかく、なんだかよくわからない感情に突き上げられる感覚こそがゆゆこの最大の魅力なんです。
猛然と、突っ走りたい衝動にかられていた。生きなきゃと思った時と同じ強さで、私は今、いかなきゃと思っていた。(本文308ページより引用)
だから、今回の「砕け散るところを見せてあげる」のラスト近くで、ある人物のこのシーンにはむちゃくちゃ興奮させられました。
前作の「知らない映画のサントラを聴く」でも似たような場面がありましたが、今回の方が、より説得力を持って迫ってくるんです。
きっと波長が合うんでしょう。
わたしには、あの蔵本玻璃の「ああああああああ!」という絶叫が自分にも伝わってしまい、
最初は清澄に対してイラだっていたくらいでしたから。
なんで玻璃の本当の気持ちがわからないんだ!てね。(まあ客観的に見れば、ドン引きされて当然だとも思いますがw)
「ああああああああ!」という、あのわけわからないリアクション。
実はあそこに、竹宮ゆゆこの魅力が詰まっているといっても過言ではないと思います。
あの理屈ではない叫びがそこにある限り、私はずっとゆゆこ作品を追い続けることでしょう。
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