「ハッピーエンド」とは何か~「高橋留美子主義者」が考える「ハッピーエンド」~
「うる星やつら パーフェクトカラーエディション」のレビューを載せた前回のエントリーで、私は「作品」だけではなく、高橋留美子の“言葉”のファンでもあると書きました。
そして、その理由というか、きっかけとして、
「ハッピーエンドはお好きですか?」という問いに対して、「大好きです。私はハッピーエンドしか描いたことがありません」と答えたことは、いまだに忘れられないくらい強烈な印象を私に残しました。
それ以来、ずっと「高橋留美子主義者」であり続けています。
と書きました。
この言葉にまったく嘘偽りはありません。
ただ、この記事を書いているときに、ふとこんな風にも思ったんですね。
「自分はこの言葉のどこに惹かれたんだろう?」と。
「そもそも『ハッピーエンド』ってなんだ?」と。
突然、こんなことを感じたのは、今読み進めているライトノベルシリーズのことも関係しているのかもしれません。
ひとつは、ファミ通文庫から刊行されている「この恋と、その未来。」というシリーズ。
もうひとつは、現在、新潮文庫NEXから「いなくなれ、群青」「その白さえ嘘だとしても」「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」の3作が出ている「階段島」シリーズという作品です。
現在、「この恋と、その未来。」はシリーズ4作目「この恋と、その未来。 ―二年目 春夏―」まで、
「階段島」シリーズは「その白さえ嘘だとしても」までは読み終えてはいるのですが、どうにも感想がまとまらないんですよ。
それどころか、考えをまとめようと何度再読しても、よけいに頭の中が混乱してきて、しまいには「いったい俺はこの作品をどう感じているんだろう?」と思い始めるくらいなんです(笑)。
いえ、どちらもすごく面白いんですよ。
それは間違いないんですが、シリーズを読み進めていくうちに何がどう面白いのか、自分でもうまく説明できなくなってきてしまったんですね。
まあ、それこそ「考えるな、感じろ」でいいのかもしれませんが、それじゃあ単なる思考停止ですから。
で、何が引っかかっているのだろうと、よくよく考えてみると、どちらも「ハッピーエンド」がキーワードだったことに気がついたんです。
というわけで、今回は「ハッピーエンド」について考えてみたいと思います。
●何が「ハッピーエンド」になるのかよくわからない作品
2014年夏、「この恋と、その未来。」シリーズの第1作目「この恋と、その未来。 -一年目 春-」の感想で、私はこう記しています。
この恋にどういう未来が待っているのか、現時点では検討もつきません。
どう収まれば、ハッピーエンドなのかもわかりません。
同年秋に、「階段島」シリーズ第1作目「いなくなれ、群青」の感想を書いたときにも、
これがハッピーエンドなのかどうかというのはなかなか難しい
と、なんとも煮え切らない感想を述べています。
まあ「いなくなれ、群青」は、記事名に『~「悲観主義者」にとってのハッピーエンド~』というサブタイトルもつけたほどに、
「ハッピーエンド」という概念が揺さぶられる話でしたから、当然といえば当然なのですが。
いずれにせよ、どちらも「どういう形が『ハッピーエンド』になるのか」よくわからない作品なんですね。
で、「高橋留美子主義者」(端的にいえば「ハッピーエンド主義者」)としては、この辺でどうにもモヤモヤしてしまって、感想どころじゃなくなっているというわけです。
●「ハッピーエンド」は「めでたしめでたし」ではない
ところで、皆さんは「ハッピーエンド」にどういうイメージを抱いているでしょうか。
どこか「甘っちょろい」というか、なんとなく「子供」ぽい結末という印象を持ってはないでしょうか。
現実はそう甘くない、後味が悪いエンディングこそが「大人」が読むに耐えうる結末だと思ってはいないでしょうか。
ウィキペディアで「ハッピーエンド」の項目を見てみると、
映画・ゲーム・ドラマ・小説・漫画などにおけるエンディングのひとつ。主人公あるいはメインキャストのグループが幸せな状態を迎え、物語が終息するというパターン。大団円。和製英語。日本民話における締めの「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」。
と載っています。
試しに、手元の辞書で調べてみると、「幸福な状態でことが完了すること。めでたしめでたしの結末。」とありました。
どうでしょう。これらを見てもなんかよくわからないとは思いませんか?
そもそも『幸せな状態』とか『幸福な状態』ってどんな状態でしょう?
それって、人によっても違うでしょうし、求められる物語によっても異なるのではないでしょうか。
ここで、面白いのはどちらも民話や童話からの引用をしていることです。
「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」とか「めでたしめでたし」とか。
つまり、もともと、子供に言い聞かせるようなお話の結末を「ハッピーエンド」と銘打っている一面があるようなんですね。
でも、私が今まで見てきて感動してきた「ハッピーエンド」と比べると、どうもちょっとニュアンスが違うように思えるんです。
例えば、私にとって、「Gu-Guガンモ」の最終回は「ハッピーエンド」なんですね。
あと、これも前に書きましたが、世間的には「バッドエンド」扱いされることも多い、新世紀エヴァンゲリオン完結編である「THE END OF EVANGELION」も最高の「ハッピーエンド」だったと思っているんです。
ネタバレになるので、あえてどういうラストなのかは言及しませんが、
どれも、「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ」「めでたしめでたし」といった感じには程遠いものです。
でも、私にはどう見ても「ハッピーエンド」にしか思えませんでした。だって、読み終えて、すごく「幸せ」な気分になるんですから。
いまだに、自分の中でうまく定義づけができずにはいるのですが、
少なくとも、私にとっての「ハッピーエンド」とは、子供を寝かしつけるために作ったような安易な結末のことではないんですね。
●高橋留美子は「ハッピーエンドしか描いたことがない」と言った
私が、高橋留美子の「ハッピーエンドしか描いたことがない」という言葉を聞いたのは、もう30年以上前のことで、確かまだ、「うる星やつら」も「めぞん一刻」も完結していなかったと思います。
でも、その頃、高橋留美子はすでにシリアス短編を描き始めていて、それまでのギャグコメディーものとは違う、「闇をかけるまなざし」「笑う標的」といったホラー色の強い作品も発表していたんですね。
これはネタバレになってしまうのですが、
「闇をかけるまなざし」は、ある少年の“死”で物語の幕を下ろします。
「笑う標的」も、一人の少女の“破滅”でエンディングを迎える形になっています。
しかし、彼女の言葉を信じるならば、これらの作品もすべて「ハッピーエンド」です。
で、もちろん、私は彼女の言葉をずっと信じているわけですね。「闇をかけるまなざし」も「笑う標的」も、私にとって「ハッピーエンド」そのものなわけです。
今思えば、私はこれらの作品をもすべて「ハッピーエンド」なのだ、と断言してくれたその毅然とした姿勢に惹かれたのかもしれません。
●松本人志は「ハッピーエンドが嫌い」と言った
「ハッピーエンド」のことを考えていくと、どうしてもある一人の人物の発言を思い出さずにはいられません。
その人の名は「松本人志」。
言わずと知れた、お笑い界のカリスマです。
彼は、「松本坊主」(ロッキング・オン刊)という本で、こんなことを言っています。
「ハッピーエンドが嫌い」
一見、高橋留美子と真逆の姿勢のように思えます。
高橋留美子ファンであると同時に松本ファンでもある私にとっても、ちょっと複雑な部分もなくはないですw(ちなみに高橋留美子はダウンタウンと松本人志の大ファンでもあります)
でもなぜか、この言葉が「高橋留美子主義」に反しているとも思わなかったんですね。ていうか、実は高橋留美子と同じことを言っているのではないかと思っているくらいなんです。
それは、彼がその理由としてこんなことを言っていたからです。
「ハッピーエンドは途中だから嫌い」
これには少し説明が必要でしょう。
つまり、ハッピーエンドは「話が終わった気がしない」というわけです。
諸行無常じゃないですけど、すべてはいつか朽ち果てるじゃないか。
どんなものだっていずれは壊れるし、人はいつか必ず死ぬわけで、あらゆる物語、人生に100%のハッピーエンドなんてありえない、だからハッピーエンドなんて「途中経過」に過ぎないじゃないか、と。
どこか「中二病」ぽい感もなくはないですが、まあ松ちゃんらしいですよね。
彼は事あることに「笑い」には“悲しさ”がなくては、といった趣旨のことを言っていますが、まさに松本人志の思想の基本がここにあるといってもいいでしょう。
そう、人間はいつか必ず死ぬ。それどころか、この宇宙だって寿命がある。「永遠」なんてものはどこにもない。
つまり本来、あらゆる物語の結末は「死」もしくは「破滅」でしかありえないわけです。
要するに、彼は「ハッピーエンド」そのものを否定しているわけではなく、単純に「終わった気がしない」と言っているんですよ。
●物語の途中
そう、「ハッピーエンド」って、実は「物語の途中」なんですよ。
本当に「結末」を描くならば、それこそすべてのお話は「みんな死にました」でなくてはいけないんですw
言ってみれば、センスなんですよね。「リドルストーリー」として、どこで話をスパッと切るかが問われるわけですよ。
「そうはいっても、結局最後はみんな死ぬんだぜw」と、最後まで見せてしまうのは“無粋”な気がするんです。
いえ、それはそれで「笑い」として成立するならOKなんですけどね。(松本人志も笑いとしてどうか、という視点で「ハッピーエンドは途中だから嫌い」と言っている気がします)
高橋留美子の描く「ハッピーエンド」は「物語の途中」の切り方がうまいんですよ。
単に「めでたしめでたし」じゃないんです。
「闇をかけるまなざし」「笑う標的」のように“悲劇的な結末”もありますが、
「炎トリッパー」のような一見“幸せな結末”にも、どこかほのかな切なさがあるんですよね。
あのラストからは、とても「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」とは思えないですよw
それこそ、舞台は戦国時代ですし、あの直後に戦死したって何もおかしくはないわけです。
●高橋留美子の「ハッピーエンド」には“死”がつきまとう
「うる星やつら」の最終話では、主人公の諸星あたるはラムにこんなセリフを言います。(※すみません、一応ネタバレになります)
「いまわの際に言ってやる」
「めぞん一刻」では、五代裕作は音無響子との結婚式の前に、かつての亡き夫「惣一郎さん」の墓の前で、こんな言葉を伝えます。
「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」
どちらも完全無欠の「ハッピーエンド」の裏で、どこか“死”の匂いがしているのは、私の気のせいだけではないはずです。
「人魚」シリーズなんて、もっと顕著ですよね。むしろ“死”さえも望めない「絶望」に彩られた悲しい「ハッピーエンド」でもあるわけなんです。
高橋留美子が描く、「ハッピーエンド」とは、これなんだと思います。
すべてのものはいずれ“死”を迎える。そんなことはわかっている。
だからこそ、せめて「物語」という形で、何かを残したい。
その想いこそが「ハッピーエンド」につながるのではないでしょうか。
今も続いている「高橋留美子劇場」シリーズの中で、私が一番好きな話として、「鉢の中」という作品があります。(高橋留美子劇場第一集「Pの悲劇」所収)
この話は利根川さんという、ある未亡人にまつわるお話です。
はっきり言って、ほのぼのとした話が多い「高橋留美子劇場」の中で唯一といってもいいくらい「後味の悪い」作品でしょう。
でも私は、最後に利根川さんが見せたさびしそうな“笑顔”に、物語の結末として一つの「理想の形」を見た気がしました。今でもあの“笑顔”を思い出すたびに、胸が締め付けられますね。
ひょっとすると、高橋留美子が残した中でも、一番最高の「ハッピーエンド」なのかもしれません。
●「ハッピーエンド」は難しい
こうして考えてみると、「この恋と、その未来。」シリーズにせよ、「階段島」シリーズにせよ、何に引っかかっているのか、少し見えてきた気がしました。
主人公たちの恋が実るのか、とかそんなことじゃないんです。どこが「物語」の切り時なのかわからないんですよ。
どちらも普通ではない設定の話だけに、「めでたしめでたし」なんていう落としどころなんて絶対にないことは明らかですし、かといって、読み手に悪意を投げかけるような「バッドエンド」なんて最悪です。
実は、そういうのが一番安易というか簡単なんですよね。いろいろあったけど最後には「別れました」「死にました」チャンチャンでいいわけですから。
どんな「物語」にも終わりはあります。それはこの世が永遠ではないように、必然的なことです。
でも、だからこそ、終わらせ方にこだわって欲しい気持ちがあります。「けっきょく、最後はみんな消えていきました」じゃあ、語る必要もないじゃないかとさえ思います。
「この恋と、その未来。」シリーズは、主人公が「性同一性障害」のヒロインに恋をするという話です。
「階段島」シリーズは、「捨てられた人々の島」が舞台の物語です。
どちらも、どういう形になれば『幸せな状態』なのかわからないというか、むしろ、どんな形になろうとも『幸せな状態』なんて望めない、最初から絶望的な設定から始まる物語です。
「ハッピーエンド」を追い求めることが、他の作品よりも圧倒的に厳しい構造なんですよ。
でも、だからこそ、あえてそこに「幸せな結末」を見出したいんですね。その方が作品として、攻めている気がするじゃないですか。
「こんな設定だもん、そりゃみんな不幸になっても当たり前だよね」じゃあ、あまりにそのまんまというかw
難しいからこそ「ハッピーエンド」を目指してほしい。
巻数を重ねていくにつれ、ますます「幸せな結末」が見えてこないシリーズだからこそ、そう期待してしまうわけです。
でも、どちらも最初から絶望的な始まり、というのは、逆に素晴らしい「ハッピーエンド」が望めるのかもしれないんですよね。
真の感動的な「ハッピーエンド」というのは、どうにもならない悲しさの上で、それでも生きている限り「幸せ」の意味を求めていくしかない、その姿勢にあるはずなのですから。
高橋留美子の「人魚」シリーズを読み返すたびに、そう確信せざるを得ない自分がいるのです。
そして、その理由というか、きっかけとして、
「ハッピーエンドはお好きですか?」という問いに対して、「大好きです。私はハッピーエンドしか描いたことがありません」と答えたことは、いまだに忘れられないくらい強烈な印象を私に残しました。
それ以来、ずっと「高橋留美子主義者」であり続けています。
と書きました。
この言葉にまったく嘘偽りはありません。
ただ、この記事を書いているときに、ふとこんな風にも思ったんですね。
「自分はこの言葉のどこに惹かれたんだろう?」と。
「そもそも『ハッピーエンド』ってなんだ?」と。
突然、こんなことを感じたのは、今読み進めているライトノベルシリーズのことも関係しているのかもしれません。
ひとつは、ファミ通文庫から刊行されている「この恋と、その未来。」というシリーズ。
もうひとつは、現在、新潮文庫NEXから「いなくなれ、群青」「その白さえ嘘だとしても」「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」の3作が出ている「階段島」シリーズという作品です。
現在、「この恋と、その未来。」はシリーズ4作目「この恋と、その未来。 ―二年目 春夏―」まで、
「階段島」シリーズは「その白さえ嘘だとしても」までは読み終えてはいるのですが、どうにも感想がまとまらないんですよ。
それどころか、考えをまとめようと何度再読しても、よけいに頭の中が混乱してきて、しまいには「いったい俺はこの作品をどう感じているんだろう?」と思い始めるくらいなんです(笑)。
いえ、どちらもすごく面白いんですよ。
それは間違いないんですが、シリーズを読み進めていくうちに何がどう面白いのか、自分でもうまく説明できなくなってきてしまったんですね。
まあ、それこそ「考えるな、感じろ」でいいのかもしれませんが、それじゃあ単なる思考停止ですから。
で、何が引っかかっているのだろうと、よくよく考えてみると、どちらも「ハッピーエンド」がキーワードだったことに気がついたんです。
というわけで、今回は「ハッピーエンド」について考えてみたいと思います。
●何が「ハッピーエンド」になるのかよくわからない作品
2014年夏、「この恋と、その未来。」シリーズの第1作目「この恋と、その未来。 -一年目 春-」の感想で、私はこう記しています。
この恋にどういう未来が待っているのか、現時点では検討もつきません。
どう収まれば、ハッピーエンドなのかもわかりません。
同年秋に、「階段島」シリーズ第1作目「いなくなれ、群青」の感想を書いたときにも、
これがハッピーエンドなのかどうかというのはなかなか難しい
と、なんとも煮え切らない感想を述べています。
まあ「いなくなれ、群青」は、記事名に『~「悲観主義者」にとってのハッピーエンド~』というサブタイトルもつけたほどに、
「ハッピーエンド」という概念が揺さぶられる話でしたから、当然といえば当然なのですが。
いずれにせよ、どちらも「どういう形が『ハッピーエンド』になるのか」よくわからない作品なんですね。
で、「高橋留美子主義者」(端的にいえば「ハッピーエンド主義者」)としては、この辺でどうにもモヤモヤしてしまって、感想どころじゃなくなっているというわけです。
●「ハッピーエンド」は「めでたしめでたし」ではない
ところで、皆さんは「ハッピーエンド」にどういうイメージを抱いているでしょうか。
どこか「甘っちょろい」というか、なんとなく「子供」ぽい結末という印象を持ってはないでしょうか。
現実はそう甘くない、後味が悪いエンディングこそが「大人」が読むに耐えうる結末だと思ってはいないでしょうか。
ウィキペディアで「ハッピーエンド」の項目を見てみると、
映画・ゲーム・ドラマ・小説・漫画などにおけるエンディングのひとつ。主人公あるいはメインキャストのグループが幸せな状態を迎え、物語が終息するというパターン。大団円。和製英語。日本民話における締めの「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」。
と載っています。
試しに、手元の辞書で調べてみると、「幸福な状態でことが完了すること。めでたしめでたしの結末。」とありました。
どうでしょう。これらを見てもなんかよくわからないとは思いませんか?
そもそも『幸せな状態』とか『幸福な状態』ってどんな状態でしょう?
それって、人によっても違うでしょうし、求められる物語によっても異なるのではないでしょうか。
ここで、面白いのはどちらも民話や童話からの引用をしていることです。
「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」とか「めでたしめでたし」とか。
つまり、もともと、子供に言い聞かせるようなお話の結末を「ハッピーエンド」と銘打っている一面があるようなんですね。
でも、私が今まで見てきて感動してきた「ハッピーエンド」と比べると、どうもちょっとニュアンスが違うように思えるんです。
例えば、私にとって、「Gu-Guガンモ」の最終回は「ハッピーエンド」なんですね。
あと、これも前に書きましたが、世間的には「バッドエンド」扱いされることも多い、新世紀エヴァンゲリオン完結編である「THE END OF EVANGELION」も最高の「ハッピーエンド」だったと思っているんです。
ネタバレになるので、あえてどういうラストなのかは言及しませんが、
どれも、「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ」「めでたしめでたし」といった感じには程遠いものです。
でも、私にはどう見ても「ハッピーエンド」にしか思えませんでした。だって、読み終えて、すごく「幸せ」な気分になるんですから。
いまだに、自分の中でうまく定義づけができずにはいるのですが、
少なくとも、私にとっての「ハッピーエンド」とは、子供を寝かしつけるために作ったような安易な結末のことではないんですね。
●高橋留美子は「ハッピーエンドしか描いたことがない」と言った
私が、高橋留美子の「ハッピーエンドしか描いたことがない」という言葉を聞いたのは、もう30年以上前のことで、確かまだ、「うる星やつら」も「めぞん一刻」も完結していなかったと思います。
でも、その頃、高橋留美子はすでにシリアス短編を描き始めていて、それまでのギャグコメディーものとは違う、「闇をかけるまなざし」「笑う標的」といったホラー色の強い作品も発表していたんですね。
これはネタバレになってしまうのですが、
「闇をかけるまなざし」は、ある少年の“死”で物語の幕を下ろします。
「笑う標的」も、一人の少女の“破滅”でエンディングを迎える形になっています。
しかし、彼女の言葉を信じるならば、これらの作品もすべて「ハッピーエンド」です。
で、もちろん、私は彼女の言葉をずっと信じているわけですね。「闇をかけるまなざし」も「笑う標的」も、私にとって「ハッピーエンド」そのものなわけです。
今思えば、私はこれらの作品をもすべて「ハッピーエンド」なのだ、と断言してくれたその毅然とした姿勢に惹かれたのかもしれません。
●松本人志は「ハッピーエンドが嫌い」と言った
「ハッピーエンド」のことを考えていくと、どうしてもある一人の人物の発言を思い出さずにはいられません。
その人の名は「松本人志」。
言わずと知れた、お笑い界のカリスマです。
彼は、「松本坊主」(ロッキング・オン刊)という本で、こんなことを言っています。
「ハッピーエンドが嫌い」
一見、高橋留美子と真逆の姿勢のように思えます。
高橋留美子ファンであると同時に松本ファンでもある私にとっても、ちょっと複雑な部分もなくはないですw(ちなみに高橋留美子はダウンタウンと松本人志の大ファンでもあります)
でもなぜか、この言葉が「高橋留美子主義」に反しているとも思わなかったんですね。ていうか、実は高橋留美子と同じことを言っているのではないかと思っているくらいなんです。
それは、彼がその理由としてこんなことを言っていたからです。
「ハッピーエンドは途中だから嫌い」
これには少し説明が必要でしょう。
つまり、ハッピーエンドは「話が終わった気がしない」というわけです。
諸行無常じゃないですけど、すべてはいつか朽ち果てるじゃないか。
どんなものだっていずれは壊れるし、人はいつか必ず死ぬわけで、あらゆる物語、人生に100%のハッピーエンドなんてありえない、だからハッピーエンドなんて「途中経過」に過ぎないじゃないか、と。
どこか「中二病」ぽい感もなくはないですが、まあ松ちゃんらしいですよね。
彼は事あることに「笑い」には“悲しさ”がなくては、といった趣旨のことを言っていますが、まさに松本人志の思想の基本がここにあるといってもいいでしょう。
そう、人間はいつか必ず死ぬ。それどころか、この宇宙だって寿命がある。「永遠」なんてものはどこにもない。
つまり本来、あらゆる物語の結末は「死」もしくは「破滅」でしかありえないわけです。
要するに、彼は「ハッピーエンド」そのものを否定しているわけではなく、単純に「終わった気がしない」と言っているんですよ。
●物語の途中
そう、「ハッピーエンド」って、実は「物語の途中」なんですよ。
本当に「結末」を描くならば、それこそすべてのお話は「みんな死にました」でなくてはいけないんですw
言ってみれば、センスなんですよね。「リドルストーリー」として、どこで話をスパッと切るかが問われるわけですよ。
「そうはいっても、結局最後はみんな死ぬんだぜw」と、最後まで見せてしまうのは“無粋”な気がするんです。
いえ、それはそれで「笑い」として成立するならOKなんですけどね。(松本人志も笑いとしてどうか、という視点で「ハッピーエンドは途中だから嫌い」と言っている気がします)
高橋留美子の描く「ハッピーエンド」は「物語の途中」の切り方がうまいんですよ。
単に「めでたしめでたし」じゃないんです。
「闇をかけるまなざし」「笑う標的」のように“悲劇的な結末”もありますが、
「炎トリッパー」のような一見“幸せな結末”にも、どこかほのかな切なさがあるんですよね。
あのラストからは、とても「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」とは思えないですよw
それこそ、舞台は戦国時代ですし、あの直後に戦死したって何もおかしくはないわけです。
●高橋留美子の「ハッピーエンド」には“死”がつきまとう
「うる星やつら」の最終話では、主人公の諸星あたるはラムにこんなセリフを言います。(※すみません、一応ネタバレになります)
「いまわの際に言ってやる」
「めぞん一刻」では、五代裕作は音無響子との結婚式の前に、かつての亡き夫「惣一郎さん」の墓の前で、こんな言葉を伝えます。
「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」
どちらも完全無欠の「ハッピーエンド」の裏で、どこか“死”の匂いがしているのは、私の気のせいだけではないはずです。
「人魚」シリーズなんて、もっと顕著ですよね。むしろ“死”さえも望めない「絶望」に彩られた悲しい「ハッピーエンド」でもあるわけなんです。
高橋留美子が描く、「ハッピーエンド」とは、これなんだと思います。
すべてのものはいずれ“死”を迎える。そんなことはわかっている。
だからこそ、せめて「物語」という形で、何かを残したい。
その想いこそが「ハッピーエンド」につながるのではないでしょうか。
今も続いている「高橋留美子劇場」シリーズの中で、私が一番好きな話として、「鉢の中」という作品があります。(高橋留美子劇場第一集「Pの悲劇」所収)
この話は利根川さんという、ある未亡人にまつわるお話です。
はっきり言って、ほのぼのとした話が多い「高橋留美子劇場」の中で唯一といってもいいくらい「後味の悪い」作品でしょう。
でも私は、最後に利根川さんが見せたさびしそうな“笑顔”に、物語の結末として一つの「理想の形」を見た気がしました。今でもあの“笑顔”を思い出すたびに、胸が締め付けられますね。
ひょっとすると、高橋留美子が残した中でも、一番最高の「ハッピーエンド」なのかもしれません。
●「ハッピーエンド」は難しい
こうして考えてみると、「この恋と、その未来。」シリーズにせよ、「階段島」シリーズにせよ、何に引っかかっているのか、少し見えてきた気がしました。
主人公たちの恋が実るのか、とかそんなことじゃないんです。どこが「物語」の切り時なのかわからないんですよ。
どちらも普通ではない設定の話だけに、「めでたしめでたし」なんていう落としどころなんて絶対にないことは明らかですし、かといって、読み手に悪意を投げかけるような「バッドエンド」なんて最悪です。
実は、そういうのが一番安易というか簡単なんですよね。いろいろあったけど最後には「別れました」「死にました」チャンチャンでいいわけですから。
どんな「物語」にも終わりはあります。それはこの世が永遠ではないように、必然的なことです。
でも、だからこそ、終わらせ方にこだわって欲しい気持ちがあります。「けっきょく、最後はみんな消えていきました」じゃあ、語る必要もないじゃないかとさえ思います。
「この恋と、その未来。」シリーズは、主人公が「性同一性障害」のヒロインに恋をするという話です。
「階段島」シリーズは、「捨てられた人々の島」が舞台の物語です。
どちらも、どういう形になれば『幸せな状態』なのかわからないというか、むしろ、どんな形になろうとも『幸せな状態』なんて望めない、最初から絶望的な設定から始まる物語です。
「ハッピーエンド」を追い求めることが、他の作品よりも圧倒的に厳しい構造なんですよ。
でも、だからこそ、あえてそこに「幸せな結末」を見出したいんですね。その方が作品として、攻めている気がするじゃないですか。
「こんな設定だもん、そりゃみんな不幸になっても当たり前だよね」じゃあ、あまりにそのまんまというかw
難しいからこそ「ハッピーエンド」を目指してほしい。
巻数を重ねていくにつれ、ますます「幸せな結末」が見えてこないシリーズだからこそ、そう期待してしまうわけです。
でも、どちらも最初から絶望的な始まり、というのは、逆に素晴らしい「ハッピーエンド」が望めるのかもしれないんですよね。
真の感動的な「ハッピーエンド」というのは、どうにもならない悲しさの上で、それでも生きている限り「幸せ」の意味を求めていくしかない、その姿勢にあるはずなのですから。
高橋留美子の「人魚」シリーズを読み返すたびに、そう確信せざるを得ない自分がいるのです。
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tag : 高橋留美子