『いまさら翼といわれても・後篇』まで読んで~「長い休日」は終わった~
<古典部シリーズ>の最新作である、『いまさら翼といわれても』の後篇をようやく読むことができました。
前篇を読んだ時点では、「後篇をきちんと読んでからちゃんとした感想を」と書きましたが、いろいろ考えた結果、「ちゃんとした感想」は古典部シリーズ第六作としてまとまったときに改めて書いたほうがいいかなという結論に達しました。
これ単独よりも、ひとつの流れの中で読み解いたほうがわかりやすいかなと感じたんですね。(6作目は“連作”短編集でしょうし)
なので、とにかく今は、現時点で感じた「思いのたけ」をここに刻んでおこうと思います。ちょっとまとまりのない内容になっているかもしれませんが、ご容赦ください。
(今回も基本、具体的なネタバレはしないようにしていますが、他の未収録短編も含めニュアンス的に内容が推測できてしまうような部分があります。)
まず、正直びっくりしましたね。
まさかあんな結末になるとは思いもしませんでした。初読段階では「え?終わり?これ前中後の“中篇”じゃないの?」と思ってしまったくらいw
でも、改めて再読してみると、納得の締め方というか、余韻のあるいいラストだなあとしみじみ感じましたね。
前篇を読んだときには、次の古典部シリーズ第六作目のテーマは「古典部部員の過去」なのではないかと思ったのですが、後篇を読んでみるとどうも違いますね。
やっぱりこれ、テーマは「奉太郎」なんですよ。ただ、単純に「奉太郎の過去」というわけでもなさそうです。
ポイントになるのは前作の「長い休日」でしょう。あの作品が次の6作目を象徴する一編になることは間違いないですね。
<古典部シリーズ>は米澤さん自身が「ビルドゥングスロマン」である、という趣旨の発言をしている通り、主人公「折木奉太郎」の“成長”が大きなテーマになっています。
で、「長い休日」という作品は、簡単にいえば「折木奉太郎はいかにして、『やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことならば手短に』という“省エネ主義”になったのか」という話でした。そして最後には、そんな奉太郎の「長い休日」にもそろそろ終わりがやってくることを暗示していたわけです。
奉太郎の姉は言います。
あんたはこれから、長い休日に入るのね。そうするといい。休みなさい。大丈夫、あんたが、休んでいるうちに心の底から変わってしまわなければ……。
(中略)
――きっと誰かが、あんたの休日を終わらせるはずだから。(「小説野性時代」2013年11月号『長い休日』より引用)
今回の「いまさら翼といわれても」での奉太郎は、千反田えるのために文字通り、奔走します。やらなくてもいいことをやり、言わなくてもいいことを言います。
「話してどうなるのだ馬鹿げている黙っている方がいい」なんて思いつつも、次の瞬間には“それ”を千反田えるに問いかけたりもするのです。
そう、今回で折木奉太郎は完全に目覚めてしまったんですね。彼の「長い休日」はこの話をもって、完全に終わったんだと思います。
思えば、「連峰は晴れているか」も「鏡には映らない」も要するに『奉太郎は長い休日に入ってはいても“心の底からは変わってはいない”』という話だったんですね。つまり、わけあって「休眠」しているだけで本当の奉太郎は決して無気力な人間ではないのだ、ということなんです。
そう考えると、ここまでの短編のテーマは一貫しています。
それは「“省エネ主義”とうそぶいてはいるけれど、それが奉太郎という人間の本質ではない」ということ。そして、「彼の本質が変わっていない以上、誰かがそれをもう一度呼び戻す」ということでしょう。
その「誰か」とは誰か。これはもう、わかりますよね。
そう、「千反田える」だったわけです。
さて、その千反田えるですが、ある意味、奉太郎以上に彼女は変わりましたね。
そのことに私はびっくりしました。
彼女が失踪していた理由は、なんとなくまあわかってはいましたが(「いまさら翼といわれても」というタイトルから想像する通りのことですw)、その結末にはやはり驚かされたというほかありません。
でも、不思議と読後感は悪くなかったんですね。
これはすごく個人的な印象なんですが、千反田えるというヒロインって今まで「人間性」が希薄だった気がするんですよ。
たとえば、昨年9月号のダ・ヴィンチ米澤穂信特集でも米澤さんは「氷菓」の原型では千反田えるは「ロボットのような存在」だったと答えているんですが、つまり、もともとは、“好奇心発生装置”というか、奉太郎に推理をさせるきっかけを作る役割でしかなかったのでしょう。
名家のお嬢様という設定も浮世離れしていますし、親しい同級生にまで敬語で接していることも含め、古典部部員の中でも一番現実感が薄いキャラだなあとずっと感じていたんですね。
それが、今回のラストで、初めて彼女の体温に触れたような気がしたんです。(ヤラシイ意味じゃないですよ、もちろん)
あの最後の一文は、一見すると“白よねぽ”と言われる「古典部シリーズ」らしからぬ“苦み”や“暗さ”に溢れているかもしれません。でも、私はむしろそこに温かみを感じたんですね。
ああ、彼女も人間だったんだ、と。
前篇を読んだときには「千反田えるは、なんの理由もなくすっぽかすような子ではない」と知ったようなことを書きましたが、とんだ思い上がりでした。彼女の何を私は知っていたんだと。
奉太郎も含め、里志も横手さんも彼女を知る人はみな、「千反田えるは責任感が強い」と言います。それ自体は間違ってはいません。
でもねえ。最後の千反田えるのセリフを聞かされた後では、彼女がこれまで背負ってきたものの重さを本当にみんなわかっていたのか?とか思っちゃうんですよ。
彼女に“期待”することに対してあまりに無邪気すぎていたんじゃないか、と。
「ふたりの距離の概算」でも単純に“清楚で真面目なお嬢様”だけではない一面は垣間見えていたとは思います。でもやっぱりどこか実感できないというか、「いい子ちゃんすぎるだろ」という思いは否定しきれなかったんですね。
それが今回では、はっきりと彼女の“ずるさ”や“弱さ”に共感することができました。
ああ彼女でもこんなどうしようもないことで悩んだりするんだ。自分と同じちっぽけな人間なんだと、初めて思うことができたんです。
だから、あの締め方はむしろ心地よかったです。彼女は単なる“お嬢様マシーン”じゃなかったんですから。脆さや醜さも持ち合わせた愛すべき人間そのものだったんだとわかったんですから。
今回、千反田えるは初めて大きなしくじりを犯したことになるかもしれません。
でも、それは人が生きていく上で、誰もが経験していくことです。彼女にとっても、絶対に必要なことなのです。
彼女にそれを与えてくれた米澤さんの優しさに、私は泣きたくなるくらいに嬉しくなるのです。
前篇を読んだ時点では、「後篇をきちんと読んでからちゃんとした感想を」と書きましたが、いろいろ考えた結果、「ちゃんとした感想」は古典部シリーズ第六作としてまとまったときに改めて書いたほうがいいかなという結論に達しました。
これ単独よりも、ひとつの流れの中で読み解いたほうがわかりやすいかなと感じたんですね。(6作目は“連作”短編集でしょうし)
なので、とにかく今は、現時点で感じた「思いのたけ」をここに刻んでおこうと思います。ちょっとまとまりのない内容になっているかもしれませんが、ご容赦ください。
(今回も基本、具体的なネタバレはしないようにしていますが、他の未収録短編も含めニュアンス的に内容が推測できてしまうような部分があります。)
まず、正直びっくりしましたね。
まさかあんな結末になるとは思いもしませんでした。初読段階では「え?終わり?これ前中後の“中篇”じゃないの?」と思ってしまったくらいw
でも、改めて再読してみると、納得の締め方というか、余韻のあるいいラストだなあとしみじみ感じましたね。
前篇を読んだときには、次の古典部シリーズ第六作目のテーマは「古典部部員の過去」なのではないかと思ったのですが、後篇を読んでみるとどうも違いますね。
やっぱりこれ、テーマは「奉太郎」なんですよ。ただ、単純に「奉太郎の過去」というわけでもなさそうです。
ポイントになるのは前作の「長い休日」でしょう。あの作品が次の6作目を象徴する一編になることは間違いないですね。
<古典部シリーズ>は米澤さん自身が「ビルドゥングスロマン」である、という趣旨の発言をしている通り、主人公「折木奉太郎」の“成長”が大きなテーマになっています。
で、「長い休日」という作品は、簡単にいえば「折木奉太郎はいかにして、『やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことならば手短に』という“省エネ主義”になったのか」という話でした。そして最後には、そんな奉太郎の「長い休日」にもそろそろ終わりがやってくることを暗示していたわけです。
奉太郎の姉は言います。
あんたはこれから、長い休日に入るのね。そうするといい。休みなさい。大丈夫、あんたが、休んでいるうちに心の底から変わってしまわなければ……。
(中略)
――きっと誰かが、あんたの休日を終わらせるはずだから。(「小説野性時代」2013年11月号『長い休日』より引用)
今回の「いまさら翼といわれても」での奉太郎は、千反田えるのために文字通り、奔走します。やらなくてもいいことをやり、言わなくてもいいことを言います。
「話してどうなるのだ馬鹿げている黙っている方がいい」なんて思いつつも、次の瞬間には“それ”を千反田えるに問いかけたりもするのです。
そう、今回で折木奉太郎は完全に目覚めてしまったんですね。彼の「長い休日」はこの話をもって、完全に終わったんだと思います。
思えば、「連峰は晴れているか」も「鏡には映らない」も要するに『奉太郎は長い休日に入ってはいても“心の底からは変わってはいない”』という話だったんですね。つまり、わけあって「休眠」しているだけで本当の奉太郎は決して無気力な人間ではないのだ、ということなんです。
そう考えると、ここまでの短編のテーマは一貫しています。
それは「“省エネ主義”とうそぶいてはいるけれど、それが奉太郎という人間の本質ではない」ということ。そして、「彼の本質が変わっていない以上、誰かがそれをもう一度呼び戻す」ということでしょう。
その「誰か」とは誰か。これはもう、わかりますよね。
そう、「千反田える」だったわけです。
さて、その千反田えるですが、ある意味、奉太郎以上に彼女は変わりましたね。
そのことに私はびっくりしました。
彼女が失踪していた理由は、なんとなくまあわかってはいましたが(「いまさら翼といわれても」というタイトルから想像する通りのことですw)、その結末にはやはり驚かされたというほかありません。
でも、不思議と読後感は悪くなかったんですね。
これはすごく個人的な印象なんですが、千反田えるというヒロインって今まで「人間性」が希薄だった気がするんですよ。
たとえば、昨年9月号のダ・ヴィンチ米澤穂信特集でも米澤さんは「氷菓」の原型では千反田えるは「ロボットのような存在」だったと答えているんですが、つまり、もともとは、“好奇心発生装置”というか、奉太郎に推理をさせるきっかけを作る役割でしかなかったのでしょう。
名家のお嬢様という設定も浮世離れしていますし、親しい同級生にまで敬語で接していることも含め、古典部部員の中でも一番現実感が薄いキャラだなあとずっと感じていたんですね。
それが、今回のラストで、初めて彼女の体温に触れたような気がしたんです。(ヤラシイ意味じゃないですよ、もちろん)
あの最後の一文は、一見すると“白よねぽ”と言われる「古典部シリーズ」らしからぬ“苦み”や“暗さ”に溢れているかもしれません。でも、私はむしろそこに温かみを感じたんですね。
ああ、彼女も人間だったんだ、と。
前篇を読んだときには「千反田えるは、なんの理由もなくすっぽかすような子ではない」と知ったようなことを書きましたが、とんだ思い上がりでした。彼女の何を私は知っていたんだと。
奉太郎も含め、里志も横手さんも彼女を知る人はみな、「千反田えるは責任感が強い」と言います。それ自体は間違ってはいません。
でもねえ。最後の千反田えるのセリフを聞かされた後では、彼女がこれまで背負ってきたものの重さを本当にみんなわかっていたのか?とか思っちゃうんですよ。
彼女に“期待”することに対してあまりに無邪気すぎていたんじゃないか、と。
「ふたりの距離の概算」でも単純に“清楚で真面目なお嬢様”だけではない一面は垣間見えていたとは思います。でもやっぱりどこか実感できないというか、「いい子ちゃんすぎるだろ」という思いは否定しきれなかったんですね。
それが今回では、はっきりと彼女の“ずるさ”や“弱さ”に共感することができました。
ああ彼女でもこんなどうしようもないことで悩んだりするんだ。自分と同じちっぽけな人間なんだと、初めて思うことができたんです。
だから、あの締め方はむしろ心地よかったです。彼女は単なる“お嬢様マシーン”じゃなかったんですから。脆さや醜さも持ち合わせた愛すべき人間そのものだったんだとわかったんですから。
今回、千反田えるは初めて大きなしくじりを犯したことになるかもしれません。
でも、それは人が生きていく上で、誰もが経験していくことです。彼女にとっても、絶対に必要なことなのです。
彼女にそれを与えてくれた米澤さんの優しさに、私は泣きたくなるくらいに嬉しくなるのです。
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tag : 米澤穂信