「王とサーカス」感想~太刀洗万智から語られる物語~
単行本を購入したときのエントリーで、私は『さよなら妖精』を読んでいなくても問題ないと書きました。
これはあとがきで、作者自らそう書かれているわけですし、間違ってはいないのですが、改めて読み終えてみると、少し言い方を変えたほうがいいような気がしてきました。
これは『さよなら妖精』と内容的にはつながっていないので、単独でも楽しめます。
でも、『さよなら妖精』を読んでから『王とサーカス』を読んだ方がより深く楽しめますよ、と。
もちろん、ひとつのミステリとして物語を楽しむだけでも読み応えのある作品です。
ただ、これは太刀洗万智というひとりの女性の物語でもあるんですね。
なので、太刀洗万智というキャラクターにどれだけ寄り添って読むことができるかが問われる作品でもあるんです。
逆にいえば、太刀洗万智の魅力がわからなければ、『王とサーカス』という作品は楽しめないかもしれません。
太刀洗万智という人間を知るためには『さよなら妖精』はうってつけです。
この作品では、守屋という主人公の視点で太刀洗万智は描写されるのですが、
他人の目に太刀洗万智はどう映っているのかを踏まえた上で、彼女自身が語る『王とサーカス』を読むと、また違った彼女の魅力に気づくはずです。
というわけで、単行本購入からなんと三か月も経ってしまいましたが、米澤穂信最新作『王とサーカス』の感想を改めて綴っていこうと思います。
よろしくお付き合いのほどを。
※以降、人によっては『王とサーカス』および『さよなら妖精』のネタばれを含むかもしれません。要注意。
マリヤ・ヨヴァノヴィチの思い出に
ページをめくると、まず目に入ってくる献辞の言葉。
もうこの時点で『さよなら妖精』既読者には感涙ものなのですが、
これについて、米澤さんはこう語っています。
「小説は終わったけれど、彼ら彼女らの物語は終わっていない」という気持ちがずっとあったので、今回の本は『さよなら妖精』の直接的な続編ではないけれど、受け継いでいるものはあるのだと示したくて献辞を入れました。(ミステリーズ!Vol.72 米澤穂信特別インタビュー 6ページより引用)
「マリヤ・ヨヴァノヴィチの思い出」とは何か。それは太刀洗万智にどういう影響を与えたのか。
ぜひ、それらがどう彼女の中に受け継がれているのか知った上で、『王とサーカス』の世界を楽しんでほしいなと思います。
●始めは「アジア旅行特集」のはずだった
物語は2001年。新聞記者をやめてフリーになったばかりの太刀洗が、月刊誌のアジア旅行特集の取材のためにネパールに訪れたところから始まります。(2001年という年は『さよなら妖精』からちょうど10年後という意味があります)
序盤は文字通り、旅行記さながらの雰囲気で語られます。
『王とサーカス』は全部で23章構成ですが、1章「祈るにも早い」から4章「路上にて」までの約80ページは、まるまるネパールの舞台紹介に費やされています。
チョクと呼ばれる広場にもなっている交差点。どこからか聞こえてくる祈りの歌。ドーナツに似ている地元の食べもの、セルロティ。
ネパールの首都カトマンズの街並みや風土、人々の営みなどが、彼女の視点で描写されていく様は、
まるで本当に太刀洗万智の旅行コラムを読んでいるような気分にさせられますね。
彼女はそこで様々な人たちと出会います。
泊まっている宿の女主人、チャメリ。
カリフォルニアの大学生で気まぐれでバックパッカーとして、あちこち海外を旅行しているロバート(通称ロブ)。
旅行客に土産物を売りつけて生計を立てている現地の少年、サガル。
インドから来た商人、シュクマル。
長年ネパールに滞在している日本人仏僧、八津田。
彼らとの触れ合いの中で、少しずつ旅に親しんでいく太刀洗の姿は、読む側にも心地よい時間を与えてくれます。
ただ、太刀洗万智というキャラクターにまだあまり思い入れがなく、ミステリの醍醐味を早く満喫したい人にとっては、この辺は少々じれったい展開かもしれません。
でも実はここに、後々の驚愕の真相に繋がるヒントや伏線が隠れているんですよ。
中でも、4章「路上にて」におけるサガルと太刀洗のやりとりは必読ですね。
その笑顔に釣り込まれ、わたしは、自分の口許が緩むのを感じた。(本文81ページより引用)
外からは冷ややかで表情に乏しく見えても、内面は感情豊かで情にも厚いという太刀洗の人間性は、実はこの物語のテーマそのものにも大きくリンクしています。
ぜひ、その辺も踏まえながら読み進めてほしいですね。
●静かな興奮
さて、そんな旅の最中、ネパールで大きな事件が起こります。
ビレンドラ国王とアイシュワリャ王妃をはじめとした計8人の王族が皇太子ディペンドラに殺されたのです。
ネパール王族殺害事件、またはナラヤンヒティ王宮事件とも呼ばれる、この実際に起こった事件によって、それまでの平和な空気は一転します。
政府の公式発表もないままに情報は錯綜し、噂が噂を呼び陰謀論も流れる中、人々は怒り悲しみ、街は警官隊にあふれ混乱の一途をたどるわけです。
そして、フリーライターの太刀洗は、王宮事件の真相をスクープできれば自分の名が一気にあがるチャンスだとばかりに、取材を始めていくわけですが、そんな中、事件当夜に警備をしていたというラジェスワル准尉と会える約束を取り付けます。
何かきわどい話をするつもりがあるからだろうか? いや、これは先走りすぎかもしれない。気持ちを抑える。興奮が顔に出ないたちなのは、こういう時つくづくありがたい。(本文136ページから137ページより引用)
太刀洗は探偵役としても優秀なパーソナリティーですね。彼女はその静かな興奮を冷徹な外面で包み隠すことができるんですから。
もちろん彼女は、別にこの前代未聞の重大事件を楽しんでいるわけではありません。それはその場に居合わせた記者としての使命感にも似た高揚感だったのかもしれません。
でも、本当にそれだけなのでしょうか?
「不幸を商売にしている」一面はないのでしょうか?
●王とサーカス
太刀洗は軍人相手に一人で会うという状況に恐れを感じつつも、「これが自分の仕事」と鼓舞しながら廃墟の地下でラジェスワル准尉と対面します。
実は、この9章「王とサーカス」に出てくる太刀洗とラジェスワル准尉の会話は、この作品の中で一番最初に書かれた部分だったそうです。(文春 本の話WEB「作家と90分」インタビューより)
章名がそのまま作品タイトルになっていることも含め、ここでの彼らの会話こそが「王とサーカス」のキモであることは疑いようがないでしょう。
なので、二人の会話の詳細についてはあえて触れないことにします。
ただ、それではあんまりなので、ふたつほど引用しましょうか。どちらもラジェスワル准尉の言葉です。
「お前の信念の中身はなんだ。お前が真実を伝える者だというのなら、なんのために伝えようとしているのか教えてくれ」(本文173ページより引用)
そう、ある意味この時点で、作品の根源的なテーマが主人公と読者に問われるわけです。
この問いかけに太刀洗万智は、うまく答えることができませんでした。
そしてこれ以降、彼女はずっと、「なぜ伝えるのか」ということを自分に問いかけながら事件を追っていくことになります。
もうひとつ、ラジェスワル准尉が最後に交わした言葉を紹介しましょう。
「私は、この国をサーカスにするつもりはないのだ。もう二度と」(本文177ページより引用)
これは誰かを責めているセリフではありません。ただ、ある「宿命」について述べているのです。
●彼女の自問自答を一緒に共有する物語
地下でラジェスワル准尉と会話を交わした次の日、彼は何者かに殺されます。
そして、その体には謎の文字が刻まれていました。それは何かの忠告にも思えるものだったのです。
果たして、彼は自分と会ったために消されたのか?自分も命を狙われるのだろうか?
物語は一気にミステリとしてもサスペンスとしても緊迫していきます。
ただ彼女は身の危険をも感じながらも、彼のあの言葉が耳から離れません。
そう、「なんのために伝えるのか」ですね。
そして、彼女はその冷静な状況分析と判断力で、この殺人事件の「ずれている」点に気づき、「まだ身を引く理由はない」と結論づけます。
この辺は、ああ太刀洗だなあと感心してしまうところですね。
無鉄砲な行動派探偵ではなく、危険な状況をクールに判断できるからこそ、
なんというか、安心して彼女の探偵ぶりを読み進められるんですよ。
もちろん、彼女は単なる「チート探偵」ではありません。
米澤さんもダ・ヴィンチ9月号のインタビューで、「外から見たらプロフェッショナルだけど、内面はすごく優しい」と語っている通り、感傷的で脆い部分もあるんです。
「大した女だな。顔色一つ変えない」
「どうも」
記者として仕事を始めてから最も、いや人生の中でも他に覚えがないほど動揺していたはずなのに、そう言われてしまった。(本文231ページより引用)
このシーンなんてもう最高の“萌え”シーンですね(笑)
まあ、こんなことをいうと、真面目なミステリファンからはお叱りをいただくかもしれませんが……。
ただ、こういった彼女の内面的な“隙”は、ミステリ的にも深みを与えているんですよ。
感情のない冷徹推理マシンウーマンじゃあ、「伝えるとは何か」というテーマにもコミットできませんからね。
物語上における彼女の行動は、一見なんの迷いもないようにも見えるのですが、
その心の中では、一人の女性としての不安や葛藤がきめ細かに語られているんです。
彼女が「これでいいのか」「私はなんのためにここにいるのか」と、常に自分に問いかけながら謎を追いかけているからこそ、読者も共感しつつハラハラドキドキできるわけですね。
『さよなら妖精』や第三者視点の『ベルーフ』シリーズとも違う『王とサーカス』の魅力は、そこにあるんだと思いますね。
彼女の自問自答を、読者も一緒に共有しつつ味わっていく物語なのです。
●「知りたい」の原点
「なぜ伝えるのか」という問いに、彼女は「わたしが、知りたいからだ」という結論に行き着きます。
つまり、「エゴイズム」なのだと。
世の中で何が起こっているのか。人々は何に喜び、悲しんでいるのか。
(中略)
アラスカでカニを獲るコツは?
イエローストーン国立公園の木々が白化していく原因は?
から始まって、彼女は様々な「知りたい」を挙げていきます。
(中略)
…
……
国王を失ったネパールはこれからどうなるのか?
ラジェスワル准尉はなぜ晒されたのか?(以上、本文197ページより引用)
そして、彼女の「知りたい」は最後に次の二つがあげられるのです。
(※ある意味『さよなら妖精』のネタばれになりますので、未読の方は注意)
わたしの大切なユーゴスラヴィア人の友人は、なぜ死ななければならなかったのか?
なぜ、誰も彼女を助けることができなかったのか?(本文198ページより引用)
もう、この最後の「知りたい」の項目を読んだ途端に泣きそうになりましたね。
そう、彼女の「知りたい」の原点はやはりそこにあったのです。
●もう半分の答え
もちろん、彼女はそれで納得したわけではありません。
……けれど、これではまだ答えの半分に過ぎない。(本文198ページより引用)
いったい、そのもう半分とはなんでしょうか。
彼女は日本人仏僧の八津田にその答えを求めます。
いわく、「なぜ書くのか、答えられません」と。
そう、己のため知ろうとする、それはいいだろう。
では、なぜそれを他人に伝え広げる?
自分で情報を選別し、どこかの誰かが知りたいと希求していることを知らせないこともあれば、
広まって欲しくないと誰かが願っていることを知らせることもあるのはなぜなのか。
安全な場所から残酷なものを求める無責任な噂好きと何が違うのか。
この答えは明確には示されません。ただ、仏僧との禅問答のような会話から、なんとなく滲み出たものを各々が掬い取るだけなのでしょう。
●ハゲワシと少女
彼女は一枚の写真を前に悩みます。
それはラジェスワル准尉の殺害現場の写真。
もし、この写真を記事にすれば、読者に強い印象を与えることができるだろう。
しかし、それは「ハゲワシと少女」を撮った写真家の二の舞になる危険性もあるかもしれない。
彼を死に追い詰めたのはお前の取材が原因なのではないか、と下手すれば人殺し扱いさえ受けるかもしれない。
しかし、一方では、自分が批難されることを恐れてお蔵入りするのは、卑怯ではないかという思いもあるわけです。
ラジェスワル准尉に「伝えることが私の仕事」と訴えながら、それではダブルスタンダードではないかと。
もう、この彼女の自責の描写を読むだけでも、胸がつまりますね。
ああ、太刀洗、そんな自分を追い詰めなくてもいいのに!と言いたくなってしまうのですが、
でも、そんな彼女だからこそ、この物語はミステリとして成り立つわけです。
彼女のその真摯さが、彼女を思いとどまらせ、事の真相に近づけさせることになるわけですからね。
そして、物語の後半では、そのラジェスワル准尉の死体写真を記事に載せるべきかどうかが、大きなテーマになっていきます。
●けれど、やはり知らなかった
その後、彼女は写真の裏を取るために、奔走します。
記事にするかどうかのタイムリミットは二日もありません。
しかも、外出禁止令がいつ出るかもわからない状況で、彼女は必死に手がかりを求め続けます。
まあ実質、ここから推理パートに入るわけですが、
彼女は表面上は、沈着冷静なクールな探偵役をこなしつつも
心の中では情に厚い一面を隠せずにいるんですよ。
例えば 、警察官とともに再び殺人現場に検証のため訪れた太刀洗は、
ラジェスワル准尉に対してこんな風に思うわけです。
彼は、わたしにとても親切にしてくれた。
(中略)
こちらに考え違いがあった時、無償で叱ってくれるのは家族か学校の教師ぐらいのものだ。
(中略)
彼はわたしに、優しくしてくれたのだ。(本文274ページより引用)
もうね。この箇所を読み返すたびに泣きそうになりますね。
だからこそ、警官からラジェスワル准尉について、ある疑いがあることを伝えられると、彼女は「信じれらません」と答えます。
さらには「彼は誇り高い男でした」とまで言うわけです。
本当に、彼女は『さよなら妖精』のころから本質的なところは何も変わっていないんですよね。
しかし、警察官は「そりゃあ嘘じゃなかっただろうさ」と言いつつも、
この世の残酷な真理のことを諭すように語り始めます。
誇り高い言葉を口にしながら、手はいくらでも裏切れる。
手を汚してきた男が、譲れない一点では驚くほど清廉になる。
……どれも当たり前のことじゃないか。あんた、知らなかったのか(本文320ページより引用)
もう、気持ちいいほどに容赦のない言葉ですね。そうです。そんな当たり前の世界に我々は生きているわけです。
それに対して、彼女はこう自答します。
知っていた。わたしが生きているこの世界はどういう場所なのか、知っていると思っていた。
けれどやはり、知らなかったのだ。
だから、これほど心が止まってしまっている。(本文320ページより引用)
どうですか。この彼女の切なくも愛しい言葉。
そして、この言葉こそが、太刀洗万智という人間の本質なのです。
●そう信じている。
物語の真相は他の米澤穂信作品に違わず、大層苦いものです。
しかも、表の真相が判明してからも、またさらにその裏の真相があり、さらに裏の裏が……といった具合で、
最後まで気が抜けない展開になっています。
それはどこか、登場人物の内面そのもののようにも思えてくるようです。
物語の終盤、20章「がらんどうの真実」の中で、ある人物が太刀洗に対してこんな忠告します。
あなたは冷ややかな素振りの内側に、純粋な思いを秘めている。それは尊い。しかしさらにその奥には、おののくほど冷たい心がある(本文385ページより引用)
まあ正直言って、これはお前がいうな的な場面でのセリフではあるのですが(笑)、この人物評価自体は当たっています。
不幸な事件が起こった最中、彼女に名を上げたいという思いがあったのは事実ですし、
立派な言葉を口にしながら、一方では保身のために手を汚してしまうような一面は彼女だって持っているでしょう。
ただ、この『王とサーカス』は、太刀洗万智のこんな言葉で締められているんです。
そう信じている。
彼女が何を信じていると言ってるのかは、是非最後まで読んで確かめてほしいのですが、
ただ、一つ言えることは、彼女はこれからもずっと「もう半分の答え」を考え続けていくのだろう、ということですね。
『さよなら妖精』という物語は、主人公・守屋の「おれはまだ、信じることができないでいた。」という言葉で幕を下ろしました。
その十年後の話である『王とサーカス』では、太刀洗万智の「信じている」で締められています。
私はここに、この物語の希望を見出したいのです。
これはあとがきで、作者自らそう書かれているわけですし、間違ってはいないのですが、改めて読み終えてみると、少し言い方を変えたほうがいいような気がしてきました。
これは『さよなら妖精』と内容的にはつながっていないので、単独でも楽しめます。
でも、『さよなら妖精』を読んでから『王とサーカス』を読んだ方がより深く楽しめますよ、と。
もちろん、ひとつのミステリとして物語を楽しむだけでも読み応えのある作品です。
ただ、これは太刀洗万智というひとりの女性の物語でもあるんですね。
なので、太刀洗万智というキャラクターにどれだけ寄り添って読むことができるかが問われる作品でもあるんです。
逆にいえば、太刀洗万智の魅力がわからなければ、『王とサーカス』という作品は楽しめないかもしれません。
太刀洗万智という人間を知るためには『さよなら妖精』はうってつけです。
この作品では、守屋という主人公の視点で太刀洗万智は描写されるのですが、
他人の目に太刀洗万智はどう映っているのかを踏まえた上で、彼女自身が語る『王とサーカス』を読むと、また違った彼女の魅力に気づくはずです。
というわけで、単行本購入からなんと三か月も経ってしまいましたが、米澤穂信最新作『王とサーカス』の感想を改めて綴っていこうと思います。
よろしくお付き合いのほどを。
※以降、人によっては『王とサーカス』および『さよなら妖精』のネタばれを含むかもしれません。要注意。
マリヤ・ヨヴァノヴィチの思い出に
ページをめくると、まず目に入ってくる献辞の言葉。
もうこの時点で『さよなら妖精』既読者には感涙ものなのですが、
これについて、米澤さんはこう語っています。
「小説は終わったけれど、彼ら彼女らの物語は終わっていない」という気持ちがずっとあったので、今回の本は『さよなら妖精』の直接的な続編ではないけれど、受け継いでいるものはあるのだと示したくて献辞を入れました。(ミステリーズ!Vol.72 米澤穂信特別インタビュー 6ページより引用)
「マリヤ・ヨヴァノヴィチの思い出」とは何か。それは太刀洗万智にどういう影響を与えたのか。
ぜひ、それらがどう彼女の中に受け継がれているのか知った上で、『王とサーカス』の世界を楽しんでほしいなと思います。
●始めは「アジア旅行特集」のはずだった
物語は2001年。新聞記者をやめてフリーになったばかりの太刀洗が、月刊誌のアジア旅行特集の取材のためにネパールに訪れたところから始まります。(2001年という年は『さよなら妖精』からちょうど10年後という意味があります)
序盤は文字通り、旅行記さながらの雰囲気で語られます。
『王とサーカス』は全部で23章構成ですが、1章「祈るにも早い」から4章「路上にて」までの約80ページは、まるまるネパールの舞台紹介に費やされています。
チョクと呼ばれる広場にもなっている交差点。どこからか聞こえてくる祈りの歌。ドーナツに似ている地元の食べもの、セルロティ。
ネパールの首都カトマンズの街並みや風土、人々の営みなどが、彼女の視点で描写されていく様は、
まるで本当に太刀洗万智の旅行コラムを読んでいるような気分にさせられますね。
彼女はそこで様々な人たちと出会います。
泊まっている宿の女主人、チャメリ。
カリフォルニアの大学生で気まぐれでバックパッカーとして、あちこち海外を旅行しているロバート(通称ロブ)。
旅行客に土産物を売りつけて生計を立てている現地の少年、サガル。
インドから来た商人、シュクマル。
長年ネパールに滞在している日本人仏僧、八津田。
彼らとの触れ合いの中で、少しずつ旅に親しんでいく太刀洗の姿は、読む側にも心地よい時間を与えてくれます。
ただ、太刀洗万智というキャラクターにまだあまり思い入れがなく、ミステリの醍醐味を早く満喫したい人にとっては、この辺は少々じれったい展開かもしれません。
でも実はここに、後々の驚愕の真相に繋がるヒントや伏線が隠れているんですよ。
中でも、4章「路上にて」におけるサガルと太刀洗のやりとりは必読ですね。
その笑顔に釣り込まれ、わたしは、自分の口許が緩むのを感じた。(本文81ページより引用)
外からは冷ややかで表情に乏しく見えても、内面は感情豊かで情にも厚いという太刀洗の人間性は、実はこの物語のテーマそのものにも大きくリンクしています。
ぜひ、その辺も踏まえながら読み進めてほしいですね。
●静かな興奮
さて、そんな旅の最中、ネパールで大きな事件が起こります。
ビレンドラ国王とアイシュワリャ王妃をはじめとした計8人の王族が皇太子ディペンドラに殺されたのです。
ネパール王族殺害事件、またはナラヤンヒティ王宮事件とも呼ばれる、この実際に起こった事件によって、それまでの平和な空気は一転します。
政府の公式発表もないままに情報は錯綜し、噂が噂を呼び陰謀論も流れる中、人々は怒り悲しみ、街は警官隊にあふれ混乱の一途をたどるわけです。
そして、フリーライターの太刀洗は、王宮事件の真相をスクープできれば自分の名が一気にあがるチャンスだとばかりに、取材を始めていくわけですが、そんな中、事件当夜に警備をしていたというラジェスワル准尉と会える約束を取り付けます。
何かきわどい話をするつもりがあるからだろうか? いや、これは先走りすぎかもしれない。気持ちを抑える。興奮が顔に出ないたちなのは、こういう時つくづくありがたい。(本文136ページから137ページより引用)
太刀洗は探偵役としても優秀なパーソナリティーですね。彼女はその静かな興奮を冷徹な外面で包み隠すことができるんですから。
もちろん彼女は、別にこの前代未聞の重大事件を楽しんでいるわけではありません。それはその場に居合わせた記者としての使命感にも似た高揚感だったのかもしれません。
でも、本当にそれだけなのでしょうか?
「不幸を商売にしている」一面はないのでしょうか?
●王とサーカス
太刀洗は軍人相手に一人で会うという状況に恐れを感じつつも、「これが自分の仕事」と鼓舞しながら廃墟の地下でラジェスワル准尉と対面します。
実は、この9章「王とサーカス」に出てくる太刀洗とラジェスワル准尉の会話は、この作品の中で一番最初に書かれた部分だったそうです。(文春 本の話WEB「作家と90分」インタビューより)
章名がそのまま作品タイトルになっていることも含め、ここでの彼らの会話こそが「王とサーカス」のキモであることは疑いようがないでしょう。
なので、二人の会話の詳細についてはあえて触れないことにします。
ただ、それではあんまりなので、ふたつほど引用しましょうか。どちらもラジェスワル准尉の言葉です。
「お前の信念の中身はなんだ。お前が真実を伝える者だというのなら、なんのために伝えようとしているのか教えてくれ」(本文173ページより引用)
そう、ある意味この時点で、作品の根源的なテーマが主人公と読者に問われるわけです。
この問いかけに太刀洗万智は、うまく答えることができませんでした。
そしてこれ以降、彼女はずっと、「なぜ伝えるのか」ということを自分に問いかけながら事件を追っていくことになります。
もうひとつ、ラジェスワル准尉が最後に交わした言葉を紹介しましょう。
「私は、この国をサーカスにするつもりはないのだ。もう二度と」(本文177ページより引用)
これは誰かを責めているセリフではありません。ただ、ある「宿命」について述べているのです。
●彼女の自問自答を一緒に共有する物語
地下でラジェスワル准尉と会話を交わした次の日、彼は何者かに殺されます。
そして、その体には謎の文字が刻まれていました。それは何かの忠告にも思えるものだったのです。
果たして、彼は自分と会ったために消されたのか?自分も命を狙われるのだろうか?
物語は一気にミステリとしてもサスペンスとしても緊迫していきます。
ただ彼女は身の危険をも感じながらも、彼のあの言葉が耳から離れません。
そう、「なんのために伝えるのか」ですね。
そして、彼女はその冷静な状況分析と判断力で、この殺人事件の「ずれている」点に気づき、「まだ身を引く理由はない」と結論づけます。
この辺は、ああ太刀洗だなあと感心してしまうところですね。
無鉄砲な行動派探偵ではなく、危険な状況をクールに判断できるからこそ、
なんというか、安心して彼女の探偵ぶりを読み進められるんですよ。
もちろん、彼女は単なる「チート探偵」ではありません。
米澤さんもダ・ヴィンチ9月号のインタビューで、「外から見たらプロフェッショナルだけど、内面はすごく優しい」と語っている通り、感傷的で脆い部分もあるんです。
「大した女だな。顔色一つ変えない」
「どうも」
記者として仕事を始めてから最も、いや人生の中でも他に覚えがないほど動揺していたはずなのに、そう言われてしまった。(本文231ページより引用)
このシーンなんてもう最高の“萌え”シーンですね(笑)
まあ、こんなことをいうと、真面目なミステリファンからはお叱りをいただくかもしれませんが……。
ただ、こういった彼女の内面的な“隙”は、ミステリ的にも深みを与えているんですよ。
感情のない冷徹推理マシンウーマンじゃあ、「伝えるとは何か」というテーマにもコミットできませんからね。
物語上における彼女の行動は、一見なんの迷いもないようにも見えるのですが、
その心の中では、一人の女性としての不安や葛藤がきめ細かに語られているんです。
彼女が「これでいいのか」「私はなんのためにここにいるのか」と、常に自分に問いかけながら謎を追いかけているからこそ、読者も共感しつつハラハラドキドキできるわけですね。
『さよなら妖精』や第三者視点の『ベルーフ』シリーズとも違う『王とサーカス』の魅力は、そこにあるんだと思いますね。
彼女の自問自答を、読者も一緒に共有しつつ味わっていく物語なのです。
●「知りたい」の原点
「なぜ伝えるのか」という問いに、彼女は「わたしが、知りたいからだ」という結論に行き着きます。
つまり、「エゴイズム」なのだと。
世の中で何が起こっているのか。人々は何に喜び、悲しんでいるのか。
(中略)
アラスカでカニを獲るコツは?
イエローストーン国立公園の木々が白化していく原因は?
から始まって、彼女は様々な「知りたい」を挙げていきます。
(中略)
…
……
国王を失ったネパールはこれからどうなるのか?
ラジェスワル准尉はなぜ晒されたのか?(以上、本文197ページより引用)
そして、彼女の「知りたい」は最後に次の二つがあげられるのです。
(※ある意味『さよなら妖精』のネタばれになりますので、未読の方は注意)
わたしの大切なユーゴスラヴィア人の友人は、なぜ死ななければならなかったのか?
なぜ、誰も彼女を助けることができなかったのか?(本文198ページより引用)
もう、この最後の「知りたい」の項目を読んだ途端に泣きそうになりましたね。
そう、彼女の「知りたい」の原点はやはりそこにあったのです。
●もう半分の答え
もちろん、彼女はそれで納得したわけではありません。
……けれど、これではまだ答えの半分に過ぎない。(本文198ページより引用)
いったい、そのもう半分とはなんでしょうか。
彼女は日本人仏僧の八津田にその答えを求めます。
いわく、「なぜ書くのか、答えられません」と。
そう、己のため知ろうとする、それはいいだろう。
では、なぜそれを他人に伝え広げる?
自分で情報を選別し、どこかの誰かが知りたいと希求していることを知らせないこともあれば、
広まって欲しくないと誰かが願っていることを知らせることもあるのはなぜなのか。
安全な場所から残酷なものを求める無責任な噂好きと何が違うのか。
この答えは明確には示されません。ただ、仏僧との禅問答のような会話から、なんとなく滲み出たものを各々が掬い取るだけなのでしょう。
●ハゲワシと少女
彼女は一枚の写真を前に悩みます。
それはラジェスワル准尉の殺害現場の写真。
もし、この写真を記事にすれば、読者に強い印象を与えることができるだろう。
しかし、それは「ハゲワシと少女」を撮った写真家の二の舞になる危険性もあるかもしれない。
彼を死に追い詰めたのはお前の取材が原因なのではないか、と下手すれば人殺し扱いさえ受けるかもしれない。
しかし、一方では、自分が批難されることを恐れてお蔵入りするのは、卑怯ではないかという思いもあるわけです。
ラジェスワル准尉に「伝えることが私の仕事」と訴えながら、それではダブルスタンダードではないかと。
もう、この彼女の自責の描写を読むだけでも、胸がつまりますね。
ああ、太刀洗、そんな自分を追い詰めなくてもいいのに!と言いたくなってしまうのですが、
でも、そんな彼女だからこそ、この物語はミステリとして成り立つわけです。
彼女のその真摯さが、彼女を思いとどまらせ、事の真相に近づけさせることになるわけですからね。
そして、物語の後半では、そのラジェスワル准尉の死体写真を記事に載せるべきかどうかが、大きなテーマになっていきます。
●けれど、やはり知らなかった
その後、彼女は写真の裏を取るために、奔走します。
記事にするかどうかのタイムリミットは二日もありません。
しかも、外出禁止令がいつ出るかもわからない状況で、彼女は必死に手がかりを求め続けます。
まあ実質、ここから推理パートに入るわけですが、
彼女は表面上は、沈着冷静なクールな探偵役をこなしつつも
心の中では情に厚い一面を隠せずにいるんですよ。
例えば 、警察官とともに再び殺人現場に検証のため訪れた太刀洗は、
ラジェスワル准尉に対してこんな風に思うわけです。
彼は、わたしにとても親切にしてくれた。
(中略)
こちらに考え違いがあった時、無償で叱ってくれるのは家族か学校の教師ぐらいのものだ。
(中略)
彼はわたしに、優しくしてくれたのだ。(本文274ページより引用)
もうね。この箇所を読み返すたびに泣きそうになりますね。
だからこそ、警官からラジェスワル准尉について、ある疑いがあることを伝えられると、彼女は「信じれらません」と答えます。
さらには「彼は誇り高い男でした」とまで言うわけです。
本当に、彼女は『さよなら妖精』のころから本質的なところは何も変わっていないんですよね。
しかし、警察官は「そりゃあ嘘じゃなかっただろうさ」と言いつつも、
この世の残酷な真理のことを諭すように語り始めます。
誇り高い言葉を口にしながら、手はいくらでも裏切れる。
手を汚してきた男が、譲れない一点では驚くほど清廉になる。
……どれも当たり前のことじゃないか。あんた、知らなかったのか(本文320ページより引用)
もう、気持ちいいほどに容赦のない言葉ですね。そうです。そんな当たり前の世界に我々は生きているわけです。
それに対して、彼女はこう自答します。
知っていた。わたしが生きているこの世界はどういう場所なのか、知っていると思っていた。
けれどやはり、知らなかったのだ。
だから、これほど心が止まってしまっている。(本文320ページより引用)
どうですか。この彼女の切なくも愛しい言葉。
そして、この言葉こそが、太刀洗万智という人間の本質なのです。
●そう信じている。
物語の真相は他の米澤穂信作品に違わず、大層苦いものです。
しかも、表の真相が判明してからも、またさらにその裏の真相があり、さらに裏の裏が……といった具合で、
最後まで気が抜けない展開になっています。
それはどこか、登場人物の内面そのもののようにも思えてくるようです。
物語の終盤、20章「がらんどうの真実」の中で、ある人物が太刀洗に対してこんな忠告します。
あなたは冷ややかな素振りの内側に、純粋な思いを秘めている。それは尊い。しかしさらにその奥には、おののくほど冷たい心がある(本文385ページより引用)
まあ正直言って、これはお前がいうな的な場面でのセリフではあるのですが(笑)、この人物評価自体は当たっています。
不幸な事件が起こった最中、彼女に名を上げたいという思いがあったのは事実ですし、
立派な言葉を口にしながら、一方では保身のために手を汚してしまうような一面は彼女だって持っているでしょう。
ただ、この『王とサーカス』は、太刀洗万智のこんな言葉で締められているんです。
そう信じている。
彼女が何を信じていると言ってるのかは、是非最後まで読んで確かめてほしいのですが、
ただ、一つ言えることは、彼女はこれからもずっと「もう半分の答え」を考え続けていくのだろう、ということですね。
『さよなら妖精』という物語は、主人公・守屋の「おれはまだ、信じることができないでいた。」という言葉で幕を下ろしました。
その十年後の話である『王とサーカス』では、太刀洗万智の「信じている」で締められています。
私はここに、この物語の希望を見出したいのです。
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