今だからこそ成り立つ「るーみっくわーるど」の形~アニメ「境界のRINNE」の“安定感”にみる新しさ~
いまさらですが面白いですね、TVアニメ「境界のRINNE」。
以前、アニメ化が決まったときに、原作について「どうもイマイチはまれない」と軽くディスっていただけに、どうにもバツが悪いんですが、こればっかりは仕方ないですね。アニメが予想以上に楽しいんですから。
所々入る、ニヤリとするようなお遊びも下品さを感じさせないですし、
テンポも遅すぎず早すぎずで、ほんと見ていて気持ちのいい作りをしていると思います。
あと、ナレーションの玄田哲章さんが素晴らしすぎますw
あれは原作にもない面白さですよね。
いやほんと、むしろ原作よりもアニメのほうが好きかもしれないくらいです。
というか、アニメを見て初めて真宮桜の魅力が少しわかったような気がするんですよ。
この辺はアニメならばの間や演出もさることながら、声優さんの力が大きいのかもしれません。
やっぱり、声と動きが入ると、それなりに人間味を感じますからねw
それに、周りがテンションの高いキャラが多いだけに、彼女のあのただずまいはかえって際立ちますし、
彼女が何を考えているのかよくわからないからこそ、そこで悶々とする六道りんねというキャラも立ってくるわけで、
なんかよくできた構造だなあと感心してしまいますw
まあこの辺は、声優さんの小気味よい掛け合いの中で改めて気づかされたわけですが、
ひょっとすると、「境界のRINNE」という作品は、
「マンガ」というよりも「アニメ」といった形のほうが向いているのかもしれないですね。
まあ、それはさておき。
……本当は今回、年寄りの愚痴を書こうかと思っていたんですよ。
というのも、ネット界隈では、「安心の面白さ」だの「さすがの安定感」だの「古典的ラブコメ。だがそれがいい」だの、そんな褒め言葉ばかり目に付いたものですから、
「うる星・めぞん」世代としてはいろいろ複雑な思いがあることをぶちまけたかったんですね。
それこそ、本来のるーみっくわーるどの凄さって、「安定感」なんかじゃなかったんだぞ、
ヒリヒリした緊張感やドキドキ感がこそがるーみっくわーるどの本質だったんだ、といったことを、グチグチと書き殴ろうかと思っていたんですよ。
でも、アニメの「RINNE」を見ていて、
『これは“今”のるーみっく作品であって、かつてのるーみっくわーるどと比べるなんて意味がない』と、気付いてしまったんです。
そりゃあ、「うる星やつら」も「めぞん一刻」も「安定」とか「安心」なんて言葉で、言い表せるものじゃありません。
当初、「うる星やつら」はしのぶというあたるの幼なじみの恋人がヒロインで、
ラムというキャラクターは連載第一回目のゲストにしか過ぎませんでした。
それが、いつの間にかラムがヒロインになり、三角関係という基本設定もうやむやになり、
それに伴い、よりカオスに、よりシュールな方向に世界は暴走していく。
とても「安心」だの「安定」だのといった「古典的ラブコメ」なんかじゃなく、むしろ過激な作風だったんです。
「めぞん一刻」もそうです。
連載当初はラブコメというより、どちらかというとドタバタ人情ものといったニュアンスが強い作品でした。
それが、音無響子というヒロインの圧倒的な存在感によって、世界観は徐々にどろどろしたメロドラマ(笑)へと変わっていったわけです。
「らんま1/2」も途中でヒロインの天道あかねの髪を切ったことで大きく路線変更するなど、
世界観が落ち着くまではけっこう試行錯誤がありました。
(ちなみに個人的には、良牙が出てからのドタバタがどうも苦手で、1巻あたりの落ち着いた感じのほうが新鮮で好きでした)
でも、「RINNE」にはそういった「揺らぎ」がないんですよね。
キャラの追加や設定の後付けなどはあるにせよ、作風というか世界観には迷いがない。
だからこそ、「安定」とか「安心」という感想になるんでしょう。
で、これはむしろ新しいるーみっくわーるどの形なのではないかと、アニメを見ていて感じたわけなんです。
長い時を重ね、試行錯誤を経た上でたどり着いた「今」のるーみっくわーるど。
そう考えると、真宮桜というヒロインもこれはこれでアリかもと思ってきたのです。
これまでの高橋留美子の作品というのは、ヒロインに作品世界を大きく変えていく力がありました。
ラムにはその力があったからこそ、面堂終太郎というキャラを作者に作らせ、
最終的にしのぶやあたるのキャラの心情までも変えてしまったわけです。
つまり、ヒロインが世界を背負っていたんです。それがるーみっくわーるどだったんですね。
だからこそ、同じようなネタが続いてもどこか危うさを感じていましたし、その緊張感がこそが魅力だったわけです。高橋留美子の意志よりもヒロインの意志のほうが優先するような世界だったのですから。
ところが、真宮桜というヒロインにはそんな大層なものはありません。
彼女は連載当初からほとんど変わらないし、よって作品世界もずっと変わらない。
世界で何が起ころうとも、彼女は動じず彼女のままでありつづけるわけです。
つまりこれは、「ボケ」というか主観的ヒロインから、「ツッコミ」役の客観的ヒロインへのシフトチェンジなんですね。
で、このスタンスというのはまさに「今」を象徴しているような気がしてきたんですよ。
無邪気にボケられる時代は20世紀で終わってしまったんですから。
そう考えると、「境界のRINNE」という作品は単純な「懐メロ」再生産作品ではなく、
やはり、21世紀の今だからこそ成り立つ新しいるーみっくわーるどなのではないかと、考え直したわけなんです。
あと、今でも「信頼のブランド」と言われるのは、逆にすごいことでもありますね。
だって、漫画家生活35年を超え、そろそろ還暦を迎えようかという一人の女性が、
未だに週刊連載を持って、かつてのノリとそれほど変わらないコメディを安定したクオリティで続けていられるわけですよ?
並の人間ではできませんよ。ほとんどモンスターですよね。
どうしても、じじい的には「安心」とか「安定感」という言葉にネガティブなニュアンスを感じてしまうのですが、
もしかすると、「安定」しているという評価は、この上ない最大級の賛美なのかもしれません。
以前、アニメ化が決まったときに、原作について「どうもイマイチはまれない」と軽くディスっていただけに、どうにもバツが悪いんですが、こればっかりは仕方ないですね。アニメが予想以上に楽しいんですから。
所々入る、ニヤリとするようなお遊びも下品さを感じさせないですし、
テンポも遅すぎず早すぎずで、ほんと見ていて気持ちのいい作りをしていると思います。
あと、ナレーションの玄田哲章さんが素晴らしすぎますw
あれは原作にもない面白さですよね。
いやほんと、むしろ原作よりもアニメのほうが好きかもしれないくらいです。
というか、アニメを見て初めて真宮桜の魅力が少しわかったような気がするんですよ。
この辺はアニメならばの間や演出もさることながら、声優さんの力が大きいのかもしれません。
やっぱり、声と動きが入ると、それなりに人間味を感じますからねw
それに、周りがテンションの高いキャラが多いだけに、彼女のあのただずまいはかえって際立ちますし、
彼女が何を考えているのかよくわからないからこそ、そこで悶々とする六道りんねというキャラも立ってくるわけで、
なんかよくできた構造だなあと感心してしまいますw
まあこの辺は、声優さんの小気味よい掛け合いの中で改めて気づかされたわけですが、
ひょっとすると、「境界のRINNE」という作品は、
「マンガ」というよりも「アニメ」といった形のほうが向いているのかもしれないですね。
まあ、それはさておき。
……本当は今回、年寄りの愚痴を書こうかと思っていたんですよ。
というのも、ネット界隈では、「安心の面白さ」だの「さすがの安定感」だの「古典的ラブコメ。だがそれがいい」だの、そんな褒め言葉ばかり目に付いたものですから、
「うる星・めぞん」世代としてはいろいろ複雑な思いがあることをぶちまけたかったんですね。
それこそ、本来のるーみっくわーるどの凄さって、「安定感」なんかじゃなかったんだぞ、
ヒリヒリした緊張感やドキドキ感がこそがるーみっくわーるどの本質だったんだ、といったことを、グチグチと書き殴ろうかと思っていたんですよ。
でも、アニメの「RINNE」を見ていて、
『これは“今”のるーみっく作品であって、かつてのるーみっくわーるどと比べるなんて意味がない』と、気付いてしまったんです。
そりゃあ、「うる星やつら」も「めぞん一刻」も「安定」とか「安心」なんて言葉で、言い表せるものじゃありません。
当初、「うる星やつら」はしのぶというあたるの幼なじみの恋人がヒロインで、
ラムというキャラクターは連載第一回目のゲストにしか過ぎませんでした。
それが、いつの間にかラムがヒロインになり、三角関係という基本設定もうやむやになり、
それに伴い、よりカオスに、よりシュールな方向に世界は暴走していく。
とても「安心」だの「安定」だのといった「古典的ラブコメ」なんかじゃなく、むしろ過激な作風だったんです。
「めぞん一刻」もそうです。
連載当初はラブコメというより、どちらかというとドタバタ人情ものといったニュアンスが強い作品でした。
それが、音無響子というヒロインの圧倒的な存在感によって、世界観は徐々にどろどろしたメロドラマ(笑)へと変わっていったわけです。
「らんま1/2」も途中でヒロインの天道あかねの髪を切ったことで大きく路線変更するなど、
世界観が落ち着くまではけっこう試行錯誤がありました。
(ちなみに個人的には、良牙が出てからのドタバタがどうも苦手で、1巻あたりの落ち着いた感じのほうが新鮮で好きでした)
でも、「RINNE」にはそういった「揺らぎ」がないんですよね。
キャラの追加や設定の後付けなどはあるにせよ、作風というか世界観には迷いがない。
だからこそ、「安定」とか「安心」という感想になるんでしょう。
で、これはむしろ新しいるーみっくわーるどの形なのではないかと、アニメを見ていて感じたわけなんです。
長い時を重ね、試行錯誤を経た上でたどり着いた「今」のるーみっくわーるど。
そう考えると、真宮桜というヒロインもこれはこれでアリかもと思ってきたのです。
これまでの高橋留美子の作品というのは、ヒロインに作品世界を大きく変えていく力がありました。
ラムにはその力があったからこそ、面堂終太郎というキャラを作者に作らせ、
最終的にしのぶやあたるのキャラの心情までも変えてしまったわけです。
つまり、ヒロインが世界を背負っていたんです。それがるーみっくわーるどだったんですね。
だからこそ、同じようなネタが続いてもどこか危うさを感じていましたし、その緊張感がこそが魅力だったわけです。高橋留美子の意志よりもヒロインの意志のほうが優先するような世界だったのですから。
ところが、真宮桜というヒロインにはそんな大層なものはありません。
彼女は連載当初からほとんど変わらないし、よって作品世界もずっと変わらない。
世界で何が起ころうとも、彼女は動じず彼女のままでありつづけるわけです。
つまりこれは、「ボケ」というか主観的ヒロインから、「ツッコミ」役の客観的ヒロインへのシフトチェンジなんですね。
で、このスタンスというのはまさに「今」を象徴しているような気がしてきたんですよ。
無邪気にボケられる時代は20世紀で終わってしまったんですから。
そう考えると、「境界のRINNE」という作品は単純な「懐メロ」再生産作品ではなく、
やはり、21世紀の今だからこそ成り立つ新しいるーみっくわーるどなのではないかと、考え直したわけなんです。
あと、今でも「信頼のブランド」と言われるのは、逆にすごいことでもありますね。
だって、漫画家生活35年を超え、そろそろ還暦を迎えようかという一人の女性が、
未だに週刊連載を持って、かつてのノリとそれほど変わらないコメディを安定したクオリティで続けていられるわけですよ?
並の人間ではできませんよ。ほとんどモンスターですよね。
どうしても、じじい的には「安心」とか「安定感」という言葉にネガティブなニュアンスを感じてしまうのですが、
もしかすると、「安定」しているという評価は、この上ない最大級の賛美なのかもしれません。
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