「ハッピーエンド」とは何か~「高橋留美子主義者」が考える「ハッピーエンド」~

うる星やつら パーフェクトカラーエディション」のレビューを載せた前回のエントリーで、私は「作品」だけではなく、高橋留美子の“言葉”のファンでもあると書きました。
そして、その理由というか、きっかけとして、

「ハッピーエンドはお好きですか?」という問いに対して、「大好きです。私はハッピーエンドしか描いたことがありません」と答えたことは、いまだに忘れられないくらい強烈な印象を私に残しました。
それ以来、ずっと「高橋留美子主義者」であり続けています。


と書きました。

この言葉にまったく嘘偽りはありません。
ただ、この記事を書いているときに、ふとこんな風にも思ったんですね。

「自分はこの言葉のどこに惹かれたんだろう?」と。
「そもそも『ハッピーエンド』ってなんだ?」と。

突然、こんなことを感じたのは、今読み進めているライトノベルシリーズのことも関係しているのかもしれません。

ひとつは、ファミ通文庫から刊行されている「この恋と、その未来。」というシリーズ。
もうひとつは、現在、新潮文庫NEXから「いなくなれ、群青」「その白さえ嘘だとしても」「汚れた赤を恋と呼ぶんだ」の3作が出ている「階段島」シリーズという作品です。

現在、「この恋と、その未来。」はシリーズ4作目「この恋と、その未来。 ―二年目 春夏―」まで、
「階段島」シリーズは「その白さえ嘘だとしても」までは読み終えてはいるのですが、どうにも感想がまとまらないんですよ。
それどころか、考えをまとめようと何度再読しても、よけいに頭の中が混乱してきて、しまいには「いったい俺はこの作品をどう感じているんだろう?」と思い始めるくらいなんです(笑)。


いえ、どちらもすごく面白いんですよ。
それは間違いないんですが、シリーズを読み進めていくうちに何がどう面白いのか、自分でもうまく説明できなくなってきてしまったんですね。
まあ、それこそ「考えるな、感じろ」でいいのかもしれませんが、それじゃあ単なる思考停止ですから。

で、何が引っかかっているのだろうと、よくよく考えてみると、どちらも「ハッピーエンド」がキーワードだったことに気がついたんです。

というわけで、今回は「ハッピーエンド」について考えてみたいと思います。


●何が「ハッピーエンド」になるのかよくわからない作品

2014年夏、「この恋と、その未来。」シリーズの第1作目「この恋と、その未来。 -一年目 春-」の感想で、私はこう記しています。

この恋にどういう未来が待っているのか、現時点では検討もつきません。
どう収まれば、ハッピーエンドなのかもわかりません。


同年秋に、「階段島」シリーズ第1作目「いなくなれ、群青」の感想を書いたときにも、

これがハッピーエンドなのかどうかというのはなかなか難しい

と、なんとも煮え切らない感想を述べています。
まあ「いなくなれ、群青」は、記事名に『~「悲観主義者」にとってのハッピーエンド~』というサブタイトルもつけたほどに、
「ハッピーエンド」という概念が揺さぶられる話でしたから、当然といえば当然なのですが。

いずれにせよ、どちらも「どういう形が『ハッピーエンド』になるのか」よくわからない作品なんですね。
で、「高橋留美子主義者」(端的にいえば「ハッピーエンド主義者」)としては、この辺でどうにもモヤモヤしてしまって、感想どころじゃなくなっているというわけです。


●「ハッピーエンド」は「めでたしめでたし」ではない

ところで、皆さんは「ハッピーエンド」にどういうイメージを抱いているでしょうか。

どこか「甘っちょろい」というか、なんとなく「子供」ぽい結末という印象を持ってはないでしょうか。
現実はそう甘くない、後味が悪いエンディングこそが「大人」が読むに耐えうる結末だと思ってはいないでしょうか。

ウィキペディアで「ハッピーエンド」の項目を見てみると、
映画・ゲーム・ドラマ・小説・漫画などにおけるエンディングのひとつ。主人公あるいはメインキャストのグループが幸せな状態を迎え、物語が終息するというパターン。大団円。和製英語。日本民話における締めの「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」。
と載っています。
試しに、手元の辞書で調べてみると、「幸福な状態でことが完了すること。めでたしめでたしの結末。」とありました。

どうでしょう。これらを見てもなんかよくわからないとは思いませんか?
そもそも『幸せな状態』とか『幸福な状態』ってどんな状態でしょう?
それって、人によっても違うでしょうし、求められる物語によっても異なるのではないでしょうか。

ここで、面白いのはどちらも民話や童話からの引用をしていることです。
「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」とか「めでたしめでたし」とか。
つまり、もともと、子供に言い聞かせるようなお話の結末を「ハッピーエンド」と銘打っている一面があるようなんですね。

でも、私が今まで見てきて感動してきた「ハッピーエンド」と比べると、どうもちょっとニュアンスが違うように思えるんです。

例えば、私にとって、「Gu-Guガンモ」の最終回は「ハッピーエンド」なんですね。
あと、これも前に書きましたが、世間的には「バッドエンド」扱いされることも多い、新世紀エヴァンゲリオン完結編である「THE END OF EVANGELION」も最高の「ハッピーエンド」だったと思っているんです。

ネタバレになるので、あえてどういうラストなのかは言及しませんが、
どれも、「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ」「めでたしめでたし」といった感じには程遠いものです。

でも、私にはどう見ても「ハッピーエンド」にしか思えませんでした。だって、読み終えて、すごく「幸せ」な気分になるんですから。

いまだに、自分の中でうまく定義づけができずにはいるのですが、
少なくとも、私にとっての「ハッピーエンド」とは、子供を寝かしつけるために作ったような安易な結末のことではないんですね。


●高橋留美子は「ハッピーエンドしか描いたことがない」と言った

私が、高橋留美子の「ハッピーエンドしか描いたことがない」という言葉を聞いたのは、もう30年以上前のことで、確かまだ、「うる星やつら」も「めぞん一刻」も完結していなかったと思います。

でも、その頃、高橋留美子はすでにシリアス短編を描き始めていて、それまでのギャグコメディーものとは違う、「闇をかけるまなざし」「笑う標的」といったホラー色の強い作品も発表していたんですね。

これはネタバレになってしまうのですが、
闇をかけるまなざし」は、ある少年の“死”で物語の幕を下ろします。
笑う標的」も、一人の少女の“破滅”でエンディングを迎える形になっています。
しかし、彼女の言葉を信じるならば、これらの作品もすべて「ハッピーエンド」です。

で、もちろん、私は彼女の言葉をずっと信じているわけですね。「闇をかけるまなざし」も「笑う標的」も、私にとって「ハッピーエンド」そのものなわけです。

今思えば、私はこれらの作品をもすべて「ハッピーエンド」なのだ、と断言してくれたその毅然とした姿勢に惹かれたのかもしれません。


●松本人志は「ハッピーエンドが嫌い」と言った

「ハッピーエンド」のことを考えていくと、どうしてもある一人の人物の発言を思い出さずにはいられません。
その人の名は「松本人志」。
言わずと知れた、お笑い界のカリスマです。

彼は、松本坊主」(ロッキング・オン刊)という本で、こんなことを言っています。

「ハッピーエンドが嫌い」

一見、高橋留美子と真逆の姿勢のように思えます。
高橋留美子ファンであると同時に松本ファンでもある私にとっても、ちょっと複雑な部分もなくはないですw(ちなみに高橋留美子はダウンタウンと松本人志の大ファンでもあります)

でもなぜか、この言葉が「高橋留美子主義」に反しているとも思わなかったんですね。ていうか、実は高橋留美子と同じことを言っているのではないかと思っているくらいなんです。
それは、彼がその理由としてこんなことを言っていたからです。

「ハッピーエンドは途中だから嫌い」

これには少し説明が必要でしょう。

つまり、ハッピーエンドは「話が終わった気がしない」というわけです。
諸行無常じゃないですけど、すべてはいつか朽ち果てるじゃないか。
どんなものだっていずれは壊れるし、人はいつか必ず死ぬわけで、あらゆる物語、人生に100%のハッピーエンドなんてありえない、だからハッピーエンドなんて「途中経過」に過ぎないじゃないか、と。

どこか「中二病」ぽい感もなくはないですが、まあ松ちゃんらしいですよね。
彼は事あることに「笑い」には“悲しさ”がなくては、といった趣旨のことを言っていますが、まさに松本人志の思想の基本がここにあるといってもいいでしょう。

そう、人間はいつか必ず死ぬ。それどころか、この宇宙だって寿命がある。「永遠」なんてものはどこにもない。
つまり本来、あらゆる物語の結末は「死」もしくは「破滅」でしかありえないわけです。

要するに、彼は「ハッピーエンド」そのものを否定しているわけではなく、単純に「終わった気がしない」と言っているんですよ。


●物語の途中

そう、「ハッピーエンド」って、実は「物語の途中」なんですよ。
本当に「結末」を描くならば、それこそすべてのお話は「みんな死にました」でなくてはいけないんですw

言ってみれば、センスなんですよね。「リドルストーリー」として、どこで話をスパッと切るかが問われるわけですよ。

「そうはいっても、結局最後はみんな死ぬんだぜw」と、最後まで見せてしまうのは“無粋”な気がするんです。
いえ、それはそれで「笑い」として成立するならOKなんですけどね。(松本人志も笑いとしてどうか、という視点で「ハッピーエンドは途中だから嫌い」と言っている気がします)

高橋留美子の描く「ハッピーエンド」は「物語の途中」の切り方がうまいんですよ。
単に「めでたしめでたし」じゃないんです。

闇をかけるまなざし」「笑う標的」のように“悲劇的な結末”もありますが、
炎トリッパー」のような一見“幸せな結末”にも、どこかほのかな切なさがあるんですよね。
あのラストからは、とても「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」とは思えないですよw
それこそ、舞台は戦国時代ですし、あの直後に戦死したって何もおかしくはないわけです。


●高橋留美子の「ハッピーエンド」には“死”がつきまとう

うる星やつら」の最終話では、主人公の諸星あたるはラムにこんなセリフを言います。(※すみません、一応ネタバレになります)


「いまわの際に言ってやる」

めぞん一刻」では、五代裕作は音無響子との結婚式の前に、かつての亡き夫「惣一郎さん」の墓の前で、こんな言葉を伝えます。

「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」


どちらも完全無欠の「ハッピーエンド」の裏で、どこか“死”の匂いがしているのは、私の気のせいだけではないはずです。

「人魚」シリーズなんて、もっと顕著ですよね。むしろ“死”さえも望めない「絶望」に彩られた悲しい「ハッピーエンド」でもあるわけなんです。

高橋留美子が描く、「ハッピーエンド」とは、これなんだと思います。
すべてのものはいずれ“死”を迎える。そんなことはわかっている。
だからこそ、せめて「物語」という形で、何かを残したい。
その想いこそが「ハッピーエンド」につながるのではないでしょうか。

今も続いている「高橋留美子劇場」シリーズの中で、私が一番好きな話として、「鉢の中」という作品があります。(高橋留美子劇場第一集「Pの悲劇」所収)

この話は利根川さんという、ある未亡人にまつわるお話です。
はっきり言って、ほのぼのとした話が多い「高橋留美子劇場」の中で唯一といってもいいくらい「後味の悪い」作品でしょう。

でも私は、最後に利根川さんが見せたさびしそうな“笑顔”に、物語の結末として一つの「理想の形」を見た気がしました。今でもあの“笑顔”を思い出すたびに、胸が締め付けられますね。
ひょっとすると、高橋留美子が残した中でも、一番最高の「ハッピーエンド」なのかもしれません。


●「ハッピーエンド」は難しい

こうして考えてみると、「この恋と、その未来。」シリーズにせよ、「階段島」シリーズにせよ、何に引っかかっているのか、少し見えてきた気がしました。

主人公たちの恋が実るのか、とかそんなことじゃないんです。どこが「物語」の切り時なのかわからないんですよ。
どちらも普通ではない設定の話だけに、「めでたしめでたし」なんていう落としどころなんて絶対にないことは明らかですし、かといって、読み手に悪意を投げかけるような「バッドエンド」なんて最悪です。
実は、そういうのが一番安易というか簡単なんですよね。いろいろあったけど最後には「別れました」「死にました」チャンチャンでいいわけですから。

どんな「物語」にも終わりはあります。それはこの世が永遠ではないように、必然的なことです。
でも、だからこそ、終わらせ方にこだわって欲しい気持ちがあります。「けっきょく、最後はみんな消えていきました」じゃあ、語る必要もないじゃないかとさえ思います。

この恋と、その未来。」シリーズは、主人公が「性同一性障害」のヒロインに恋をするという話です。
「階段島」シリーズは、「捨てられた人々の島」が舞台の物語です。

どちらも、どういう形になれば『幸せな状態』なのかわからないというか、むしろ、どんな形になろうとも『幸せな状態』なんて望めない、最初から絶望的な設定から始まる物語です。
「ハッピーエンド」を追い求めることが、他の作品よりも圧倒的に厳しい構造なんですよ。

でも、だからこそ、あえてそこに「幸せな結末」を見出したいんですね。その方が作品として、攻めている気がするじゃないですか。
「こんな設定だもん、そりゃみんな不幸になっても当たり前だよね」じゃあ、あまりにそのまんまというかw

難しいからこそ「ハッピーエンド」を目指してほしい。

巻数を重ねていくにつれ、ますます「幸せな結末」が見えてこないシリーズだからこそ、そう期待してしまうわけです。

でも、どちらも最初から絶望的な始まり、というのは、逆に素晴らしい「ハッピーエンド」が望めるのかもしれないんですよね。

真の感動的な「ハッピーエンド」というのは、どうにもならない悲しさの上で、それでも生きている限り「幸せ」の意味を求めていくしかない、その姿勢にあるはずなのですから。

高橋留美子の「人魚」シリーズを読み返すたびに、そう確信せざるを得ない自分がいるのです。

 
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tag : 高橋留美子

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No title

「物語の途中」の切り方がうまい。
なるほどですね。

そういや宮崎駿の「めぞん一刻は男が管理人を押し倒せばすぐ終わる話」って批評
軽くイラっとしましたけど、まあでも五代くんがいつ管理人さんに告白するかなんて、
高橋留美子の胸三寸で決まるっちゃ決まるんですよね
別に惣一郎さんのこと知る前に告白しても不自然じゃないし、
もっともっと話を伸ばしたっていいわけだし

ある小説で「小説家を目指してる男性の話」があって、最後に小説書けるようになって終わるんですけど、
後に作者が「小説を書ける様になる・ならないなんてこっちの都合次第なんでちょっと安易な終わり方」と自己分析してましたが、
確かに、作者って「これをすればいつでも終わり」って鍵を持ってるだけに、「どこでそれを切るか?」が重要なんでしょうね

個人的に暗い話とかバッドエンドって好きじゃないものが多いんですよね
「なんかよくわかんないけどこうすりゃなんか深いでしょ?」
みたいな感じのものが多くて
逆に安易なハッピーエンドも、もう途中から作者の都合のいいようにキャラや話が動いてて、
そういうのは「物語」じゃなくて「妄想」だよな、と思ったり

そこらへん、高橋留美子は真っ向勝負というか、
物語に正しく向き合ってるなあ、と思います

No title

Ooさん、コメントありがとうございます。


宮崎駿の話は私も聞いたことがありますが、あのレベルになると、もはや腹も立ちませんねw
思うにあれは、五代という主人公の優柔不断さに、年寄りが不甲斐なさを感じているだけでしょうw
ある意味、すごく素直な感想だと思いますよ。


私がこのエントリーを書こうと思ったのは、「ハッピーエンド」=安易、「バッドエンド」=深い、みたいな風潮に異議を申し立てたい、という思いと同時に、
世間一般的な「ハッピーエンド」イメージと自分の中にあるイメージとのギャップというか、ズレを一旦整理したいという気持ちからでした。

で、そもそもなんで、高橋留美子の「ハッピーエンドしか描いたことがない」という言葉にあんなに感動したんだろうと考えてみたんですよ。
逆に言えば、今まで深く考えたことがなかったわけですがw

当時のことを思い出してみると、そのインタビューを読んだのは「笑う標的」など、ある種「後味の悪い」シリアス短編をすでに発表していた後だったことに気づいたんです。

つまり、彼女はそういった作品をもすべて、「ハッピーエンド」と断言していたんですね。そのことに、子供心ながら衝撃を受けたんです。

記事内に例をあげた「鉢の中」という作品は、よくよく考えてみるとすごくグロテスクな話です。
できれば見たくないような人間の醜さ、おぞましさを容赦なく突きつけられる話です。そして、「どうしようもない状況」は最後まで変わりません。
そう、「状況」だけみれば、明らかに「バッドエンド」な話なんです。

でも高橋留美子は、ラストシーンで利根川さんのさびしそうな“笑顔”を描きました。
あの“笑顔”には、「どうしようもない現実」を踏まえながら、それでもなんとか生きていこうという「意志」が感じられたんですね。
だからこそ、あの作品は「ハッピーエンド」なんだと思います。

現実はそりゃあ、甘くないです。戦争もテロもなくなるどころかひどくなる一方ですし、毎日、ひどい犯罪でニュースは埋め尽くされています。
「状況」を素直に描けば、「バッドエンド」になるのは必然です。


でもそれって、「安易」だと思うんですよね。
「ハッピーエンド」って、すごく難しいんですよ。決して、単に「幸せな状態」を描けばいいってもんじゃないんです。それこそ「妄想」ですからw
高橋留美子があの時に言っていた「ハッピーエンド」は「状況」や「状態」のことではなく、「意志」だったと思うんです。

「どうにもならない状況」の中でどれだけ幸せを求めていく「意志」を見せられるか。
本当の「ハッピーエンド」はそういうことなんだと信じています。

この恋とその未来の感想を待ってます!

No title

お茶様、ありがとうございます。そして、お待たせして申し訳ありません。。。

「この恋と、その未来」は、自分の中でも特に印象に残る大切なシリーズですので、
時間がかかっても、必ず最後まで感想を綴っていくつもりです。
いつまでとお約束できないのが心苦しい限りですが、
なるべく早くアップしたいと考えておりますので、
どうか気長にお待ちいただけたら幸いです。m(_ _)m

No title

そういえば、凄く昔のクイックジャパンだったかの高橋留美子特集
そこで高橋留美子先生はインタビューで、
自分の描きたいものより、読者受けするもの、ってはっきり言ってたんですよね
即答できっぱり

で、同じ号で岡田トシオが高橋先生について、
「少年誌で書き続けるって並大抵の精神じゃできない、
あの手塚治虫だって青年誌に逃げた」
って言っていて
青年誌は少年誌と違って、思想とかテーマでいけちゃうけど、
少年はそんなもんに騙されねーよ、みたいな意味で言ってたと思うんですけど

小難しい思想やテーマに逃げず、
ちゃんと少年誌でエンターテイナーを引き受ける
だからと言って子供騙しは絶対しない
高橋留美子の凄さって、そこら辺にあるんじゃないですかね

だからこそ、
>「どうにもならない状況」の中でどれだけ幸せを求めていく「意志」を見せられるか。
って作品を描き続けるんじゃないかと

ちなみに管理人さんがアオイホノオの記事で、あだち充と高橋留美子について書いてましたけど、
自分はあだち充派だったりします
そして高橋留美子派に密かにコンプレックス抱いていたりします
自分はあだち充の方が好きなんですけど、
高橋留美子ファンのが「なんかあいつらのがセンスよさそうだ…」みたいなねw
だから実はそんなに高橋作品って読んでないんですよね、
読んだら絶対ファンになるんだろうなあって、捻くれた理由で
でももう今更そんなのこだわる歳でもないし、
久しぶりに読んでみようかな、と思いました

No title

>あだち充派が高橋留美子にコンプレックス

すみません、そんなこと夢にも思ってみなかったので、ちょっと困惑しています。

「タッチ」と「うる星やつら」が二大看板だったころの少年サンデーを知っている人間にとって、
あだち充って「ほぼ完ぺきな存在」だったんですよ。それこそ、いくら手を伸ばしても永遠に届くことのない天上の星みたいな。
だからこそ、高橋留美子に陶酔している人間にとっては“憎らしい存在”でもあったんです。

合作マンガ「MY SWEET SUNDAY」でも高橋留美子は「私にとってあだち先生は常に先を行く越えられない山です」と語っていますが、
これはファンからしても、決してお世辞なんかじゃなく本心なんだろうなと思うんです。

一億部突破という偉業も先に越されましたし、知名度にしても売り上げにしても、常に「二番手」というイメージがつきまとう。
しかも、あだち充には、そうなって当然と思えるような洗練された面白さがあったわけです。ケチをつけたくてもつけようがないもどかしさみたいなものがあったんですよ。


あだち充に対しては「明るく正しい青春」そのものというか、今でいう「リア充」側の象徴みたいにずっと感じていました。
その反面、高橋留美子にはメジャーの中でもどこかうす暗いくらいというか、「変なやつらが夢中になっている」ものといううしろめたさがあったんです。

話はちょっとずれますが、「Dr.スランプ」と「うる星やつら」のアニメが同時に放映されていたころ、どこかのアニメ雑誌の評論で、
「どちらも一般大衆に受けるメジャーな作品に見えるが、実は『うる星やつら』って暗い一面がある作品なのではないか」という記事を読んだことがあります。
いわく、「『Dr.スランプ』は則巻博士とみどり先生を簡単にノリでゴールインさせるようなあっけらかんとした明るさがあるが、
『うる星やつら』は決して、ラムとあたるをくっつけたりはしない。どこかに、『世の中そんなに甘くない』という暗い世界観がある」というような趣旨だったと記憶しています。

この記事は別に高橋留美子批判というわけではなく、だからこそ、『うる星やつら』という作品は面白いんだといった感じだったと思うんですが、
まだ子供だった私にはその記事ですごく自分の中のコンプレックスを刺激させられたんですね。
ああ、やっぱり留美子ファンって「暗いやつ」側の人間なのかと。(当時は「オタク」という蔑称はまだなく、見下す言葉としては「暗い」が主流でした)
あだちファンもきっと、留美子なんてなんか気持ち悪いじゃん、とか心の中では思っているんだろうなみたいな卑屈な感じもどこかにあったんです。

つまり、「明るくさわやかな人間」側のトップランナーであるあだち充には、どうあっても留美子側は追いつかないんだ、みたいな一種の諦観みたいな感情すらあったんですよ。

だから、Ooさんの“高橋留美子にコンプレックス”という話は、本当に驚きました。
今更ながら、わたモテのもこっちがリア充やキョロ充にも彼らなりの大変さがあるんだと気づいた時の気持ちがわかりましたねw
そうかあ、歪んだコンプレックスを抱いている相手側にも、こちらに対して同じような思いを抱いていたりするんですね。


あのクイックジャパンの特集を読んでいらっしゃるなら、知っているかもしれませんが、実は高橋留美子ってけっこうマニアックなんですよね。
好きなマンガ家に「池上遼一」「諸星大二郎」「花輪和一」「星野之宣」をあげていたり、ガロにも投稿していたりと、今なら「サブカル系女子」と言われるような嗜好の持ち主なんですよ。

いつだったか、かなり前に少年サンデーのアンケートで「最近はまっている音楽は?」という質問に「ヒカシュー」と答えていたのを思い出しましたw
知っています?ヒカシューw
まだ、ザ・ベストテンに出てくるような歌しか知らなかった当時の私には、なんのことだかまったくわかりませんでしたよw
つーか、少年誌でそんなマニアックな答えすんなよ!と後から思いましたがw

本来、そんな資質の持ち主ですから、「そっち系」というか、やろうと思えばいくらでもカルト的な作品を描ける人なんですね。
でもそこをあえてやらない。
これは、彼女がそういう「芸術性」のあるマンガを嫌っているというわけじゃなくって(そうでなきゃガロだのCOMだの読んでいないでしょう)、
自分のフィールドはそこにはないと分かっているからじゃないかと思うんですよ。
逃げる逃げないというよりも、単に大衆向けという現場が自分に一番合っていると知っているからという気がするんです。


だから個人的には、岡田氏がいうような「手塚は青年誌に逃げた」とは思いませんが、「高橋留美子は手塚治虫よりも藤子・F・不二雄に近い」という説には賛同しますね。


そういえば、評論家の唐沢俊一氏がデビュー直後の高橋留美子に、
「これから売れてくると、描きたいものと作品が離れていくと思うのでお気を付けください」(よく考えるとすげえ嫌みなファンだなw)というファンレターを送ったら、
帰ってきた返事に「私は売れたいと思ってこの世界に入ったので、絶対に潰れませんからご安心ください」とあったというエピソードがありましたよねw
個人的にすごく好きなエピソードですw

あだち充もそうですが、読み手側の変なコンプレックスに関係なく、「売れる」ということに対して真摯なんです。言い換えれば迷いがない。
その辺が、最後まで児童向けマンガにこだわった藤子・F・不二雄に通じるところがあるように思いますね。

No title

丁寧な返信ありがとうございます
その当時のファンの心理は後追いでは分からないので、凄く面白いです

自分は思春期に「H2」と「らんま」の世代なんですね
その頃には高橋VSあだちみたいな風潮はなかったと思うし、
どっちが上かみたいな話もなかったはずだと思います

ただ、所謂「漫画読み」とか「サブカル」「オタク」
ここは圧倒的に高橋留美子ファンが多かったんですよね
片やあだち先生は読んでる人間は山ほどいる、
好きなやつも山ほどいる、
でも「ファン」ってなると同年代にはあんまりいない
いても「漫画読み」や「サブカル」の人間じゃないんですね

そして高橋留美子ファンって、
メジャーな漫画だけ読んでる奴でもないし、
カルトな漫画ばっか読んで「こんなん分かる?」みたいなサブカル気取りでもない
その辺に軽やかさみたいなものを感じて、
「なーんかあいつらセンス良さそうだなー」ってコンプレックスを抱くっていうね


ちなみにヒカシュー知ってますよw
個人的に80年代のニューウェーブが好きだったりするので

No title

自分は高橋留美子の作品はうる星やつらしか読んだことが無くて、しかも10年以上前のことなので記憶があやふやではありますが確かに「ハッピーエンド」というかキャラクターを幸せにしたいという傾向はあったきがします
うる星やつらでも終盤になるとサブキャラのパートーナーになりそうなキャラが唐突に登場するんですよね(竜之介の逆バージョンみたいなキャラがいきなり出てきましたよね?)

松ちゃんの話が出ていましたが、確かに松ちゃんの笑いって人生のやるせなさや寂しさが内包されているんですよね、トカゲのおっさんなんてまさにそれですし、一人ごっつのコントもかなりダークなのがありましたし
ブラックな部分がありつつも笑えるってのがダウンタウンの凄みなんだと思います

No title

コメントありがとうございます。

>キャラクターを幸せにしたいという傾向
というか、高橋留美子は、キャラを愛しすぎるところがあって、
なるべくすべてのキャラたちにパートナーを見つけてあげたいと思う傾向があるんですね。
だから、急に周りのキャラたちがくっつき出すと、最終回が近いなと自然にわかってしまうんですw
逆に言えば、それらの問題が解決しない限り完結させることができない人なんですよ。

これは「めぞん一刻」をはじめ、他の連載作品でも同様で、
個人的には、ちょっと悪い癖だなあという気もしますね。

高橋留美子の「ハッピーエンド」の真髄は、どちらかというと短編にこそあると思うんで、
できたら、短編集をおすすめしたいですね。

それにしても、ごっつは本当にとてつもない番組でしたね。
あんなハイレベルなコントが毎週観れたなんて、いまだに信じられません。(さすがに後期はコントが少なくなっていきましたが)
今思うと、とんでもないことが起きていたんだなあとしみじみ思います。

「とかげのおっさん」もよかったですが、個人的には、「ミラクルエース」と「キャンディさん(ストリッパー物語だったかな?)」あたりが特に印象深いですね。
なんというか、ブラックユーモアというより「ブラックペーソス」とでもいうべき哀しさがありました。

松本人志って、人間の「負の感情」を笑いにするのがうまいんですよ。
「哀しさ」もそうですが「怒り」さえも笑いに変えるんですよね。
しかも「風刺」とか「社会批判」とかそういうレベルではなく、すごくパーソナルな怒りで、
その純粋に「人が怒っている姿」がひたすらおかしい、という笑い。
その怒りが説得力があるとかないとか関係なしに笑えるっていうのは、ちょっとすごいですよ。

ガキのトークや一人ごっつで、車のマナーについてひたすら松っちゃんが怒っているのがあるんですけど、
あれなんか、何が面白いのかよくわからないくらいなんですが、いまだに爆笑できますね。
「ホワッツクラクション!?」とかw
自分自身の怒りさえも笑いにしてみせるって、ある意味業が深すぎますね。

No title

>Ooさん
あの当時の私の屈折したファン心理を、留美子ファン普遍的なものだと思われると、ちょっと具合が悪いかも……(汗
あくまで、イチファンの特殊なケース、と捉えていただけると幸いですm(_ _)m
さすがに、あれほどひねくれていたるーみっくファンは私くらいだったと思うので……

しかしなるほど、「らんま」世代ですと、よけいに私みたいなことを感じているファンはいなかったかもしれません。
高橋留美子は「うる星」「めぞん」を終了後、それまでのようなマニアックなネタを封印して、よりわかりやすい作風にシフトするんですね。
それまでのファン層を切ってでも、普通の女子中学生ぐらいをターゲットに定めて、「らんま」をはじめたらしいんです。(それで、見事に成功するんですからすごいんですが)

いうなれば、私にとっての「らんま」って、「明るく正しい」側の作品なんですね。
裏切られた、とまでは思っていませんでしたが、どこか自分の中でも留美子熱が少し醒めていた時期ではあったんです。

それにしても、メジャーだけでもないしカルトだけでもない、という話は興味深いです。
私なんかは、「一般人」にも「サブカル」にもなれなかった、どっちつかずの“なりそこない”であるという劣等感がずっとあるんで、そういう見方は新鮮でした。
ちょっと「らんま」世代の軽やかさがうらやましくも感じますねw

No title

あまり他人様のブログで何度も自説を垂れ流すのも失礼なので、
これで最後にしますが、
どうしても書きたくなったので

以前、松本人志について、
「誰でも分かる笑いなのに、俺だけがこの笑いを分かってると思わせる」
それが松本人志の強さ・凄さなんだ、
みたいな評論があったんですね

で、それは高橋留美子についても言えると思うんです
高橋留美子の漫画が面白いなんて誰だって分かるんです
でも、漫画好きの評価にも耐えられる
誰だって分かる面白さなのに、「俺だけがこの凄さを分かる」みたいな

広く、深く、っていう
美味しいどころ取りみたいな

そこら辺が、ハッピーエンドに対する考え方にも繋がるのだろうし、
メジャーな漫画好きにもカルトな漫画好きにも、
どっちにも通じる凄さに繋がるんじゃないでしょうかね

まあ個人的にはその凄さを感じさせもしない、
あだち充が最高峰だと勝手に思っているんですけどw
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ぬるく切なくだらしなく。 オタクにも一般人にもなれなかった、昭和40年代生まれの「なりそこない」がライトノベルや漫画を主観丸出しで書きなぐるところです。 滅びゆくじじいの滅びゆく日々。 ブログポリシーはこちら

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